カオルくんの闘病記

3月1日(土)

無事に、無事に3月を迎えることができた。
朝が来る。ふだん当たり前のように過ごしているそのことが、今、私にとってどれだけありがたいことか……。ちづちゃんも同じように感じている。カオルくんのご両親も兄夫婦も、私の母親も姉夫婦も、みんなみんな……無事に朝を迎えることの、喜びを感じている。

洋光台の自宅を出て、11時30分ごろ病院到着。カオルくんは赤ちゃんのようにスヤスヤ眠っていた。脈拍、血圧、体温はおとといの値をずっと保っていて、安定している。顔つきを見ている限り、とても病人とは思えない。もしかしたらこのままずっと健康そうな顔色を保ったまま、桜の季節さえ迎えられるのではないかと思えてしまう。

14時。I先生が来て「安定してますよね。安定しきってますよねー」と言う。先週の金曜日に「危篤」の連絡を受け、毎日、薄氷を踏むような思いで過ごして来た。その間、M先生はアメリカに一週間出張することになり、戻って来るまでカオルくんは生きてはいられないだろう、という予測もあった。私がI先生に、「M先生には、もうお会いできないかと思いましたけど……」と言うと、「この調子なら、会えますね」と言ってくれた。

相変わらず危機的状況は続いているとはいえ、カオルくんの病状のこの安定は何だろう? 私たち家族の声がカオルくんに届いているのかな? 願いが……思いが……届いているのだろうか……?

3月2日(日)

また朝が来た。カオルくんおはよう! と手を握れることの幸せ。深夜も安定していた様子だ。よかったよー。

午後1時ごろ、ようきとまあきが静かにやって来た。母親も来てくれた。みんなで食堂でお昼をする。ちづちゃんも到着。遅れてカオルくんの兄夫妻も到着。兄妹がカオルくんのベッドサイドに集まった。カオルくんは、今朝より手術した部分に腫れがみられる。唇には気泡のような……ヘルペス? いやだー。花粉がたくさん飛んでいそうで怖い……。夕方、まあきとようきを連れて自宅に帰った。

自宅で休むのは、10日ぶりだ。最寄りの駅から歩いている途中から、「久しぶりだねー」と言いながら帰った。子供たちは、花粉症で苦しんでいる私を見て、「お父さんが治ったらアメリカに行こうよ。アメリカは花粉がないんだよー」と言う。治ったら……か。そうか、息子はカオルくんが治ると信じてる。

夜寝る前に、私はカオルくんのご両親に、現在の病状と今後の対応について話すため1階に下りていた。話を終え2階に戻ると、ようきがシクシク泣きながら布団から出てきた。寂しいんだ。夏休みも、久々に我が家に帰った夜、同じように泣いたっけ。まあきもつられたのかシクシク泣きはじめた。ふたりの間に入り、添い寝をした。30分以上そばにいると、やがてふたりは眠りについた。

3月3日(月)その1

我が家の布団でも、たびたび目覚めてしまい、充分な睡眠がとれなかったが、心地はよかった。しかし、変な夢を見た。ここへきて周りから責められる夢だ。「結局、食べ物がいけなかったのよー。野菜も国内産じゃなく、安い輸入物を食べさせていたんでしょう。ネギやホーレンソウやブロッコリーも……」と、やたら責められている。責めているのは、何とちづちゃんだ。まあ、ふだんから食品にはうるさいというか、知識があるからだろうが、この闘病を二人三脚で支えてきたのにー、と夢の中で、私は悲嘆していた。朝、目覚め、夢だと知ると、ひどく安堵した。

朝7時になって、雨戸を開けても息子ふたりは眠りこけ、びくとも動かない。起こすのがかわいそうになってしまったが、仕方なく目覚まし時計を鳴らす。まあきは飛び起きたが、ようきはぼんやりしている。そして「頭が痛い」と言いだした。ようきは引き続ききょうも学校を休むことにし、私はまあきとふたりで小学校へ行き、担任の先生に事情を話すと病院へ向かった。

午前10時病院着。カオルくんは脈が120に上がっていて、血圧が80に下がっていた。あらら〜〜っ。午後、脈は90に下がったが、血圧はどんどん下がり 58に……。15時過ぎ、ふたたび130になり……とと、私は家に戻れなくなってしまった。16時過ぎ、Sちゃんが来てくれた。カオルくんは、きょうははじめ真っ赤な顔をしていたが、その赤味が徐々にひいて、普通の顔に戻った。Sちゃんもカオルくんを見つめ、「顔だけ見てると、桜も見られそうだけどなー」と言う。

3月3日(月)その2

しばらく安定していたようだったが、夕方、2月21日の危篤の時よりもっともっと悪い状態になってきた。血圧の低い時間が、とても長く続いている。顔色も、赤くなったり青くなったりだ。そんな折、リハビリのT先生が病室に来てくれた。「カオルさんは、一生懸命、体を調節しているのよ……」と言う。

15時33分。血圧は48のまま。I先生が「雨の日は危ない」と言う。18時過ぎ。血圧がほとんど測れなくなってきてしまっている。尿もほとんど出ていない。19時過ぎ。血圧40台が続くと、ふつうはスーッと逝ってしまうのだという。きっと心臓が強いのだ。

夜の回診。「状況はわかっていますね?」と、我々家族が、状況の厳さを承知していることをI先生が確認した。この日、海外出張から戻ったM先生も病室に来てくれた。「もう先生にお会いできないかと思いましたが、お会いできてよかったです……。今夜が峠ですか?」と私。M先生は深くうなずき、「だいぶ心臓も弱っていますしね」と重い表情で言った。

それでもカオルくんの顔色、顔つきはまだいける! 大丈夫……という感じがある。カオルくんが危篤状態になってからは、機械の数値よりカオルくんの顔色で判断していた。今の顔色なら、まだ大丈夫そう、と判断し、ちづちゃんと一緒に食堂で食事に行った。

「カオルくん、ただいまー!」「えっ?」病室を留守にしたのは、ほんの短い間のことだったが、戻ってみたら、顔色がものすごく悪くなっている。ひどい。黄土色というか……。脈が28。あわてて看護婦さんに「顔色悪い!」と伝える。ちづちゃんとふたりで「カオルくん!」「兄貴!」と大きな声を出し、頬をたたく。

ちょうどその頃、兄が洋光台の自宅からまあきとようきを連れ、病院へ向かっていた。「カオルくん、カオルくん。ねぇ、まあきとようきが来るよ。来るよ。もうすぐ病院に着くから。カオルくん、カオルくん!!」だがいくら呼びかけても、顔色は回復しない。やだー。左頬がどんどん紫色になっていく。なに。やだー、やだー。「カオルくん、逝っちゃダメだよ。まあきとようきが、もうすぐ来るから。カオルくん、カオルくん!!」どうしたの? どうしたのよ、この顔色。どうしたのよ?

21時40分ごろ。ハァーハァー言いながら、まあきとようきが病室に到着。ベッドサイドにしがみついて、「おとうさん。おとうさん。起きて、起きて。おとうさん、おとうさんー」と大声で呼び掛ける。ちづちゃん、私、子供たち。4人でひたすら名前を呼び、カオルくんの頬を、手を、揺さぶり続ける。

しばらくするとM先生が「もう心臓が止まってから10分経っています」と、言った。「そうなんだ」ちづちゃんが、力の抜けた調子でポカンと言った。M先生がペンライトで、カオルくんの瞳に光をあてる。「21時59分でした」とM先生が頭を下げる。何? 終わったの? 死んだの? まだ温かいのに?

人工呼吸器につながれていて、心臓が止まったことなどちっとも気づかず、私たちはずっとカオルくんを呼び続けていた。先生方が病室を引き払ったあとも、ふたりの息子はずっと「おとうさん、起きてー」「おとうさん、起きてー」を繰り返した。私はふたりの息子に、「もういいよ」と声をかけた。ふたりは呼び掛けるのをやめた。何も言わず、何も聞かず、疲れ果てた顔をしていた。ちづちゃんが「なみちゃん」と、抱きついてきた。

昨日までは安定したいたカオルくん。容体急変とはいえ、私とちづちゃんが必死に名を呼び続けている間、息子ふたりと兄が、カオルくんの死に際に間に合ったのは幸せといえるだろう。悔いはないといえるだろう。カオルくんの顔を見つめていると、やがて紫色に変わった頬は元に戻り、むくみすらとれたように思えた。美しい顔だった。

しばらくすると、私の緊急メールを見たAさん、Sくん、Nくん、Hさん、Sちゃんが駆けつけてくれた。また、Tさんにカオルくんが逝ったことを連絡すると、Oさんが出張先の北海道から電話をくれた。駆けつけた人たちは、みな言葉をなくし、呆然と息を引き取ったカオルくんの姿を眺めていた。

ステーションにいらした若いN先生が「K(先生)に連絡してもいいですか?」と言ってきた。「もちろんです。いい顔でしたと、よろしくお伝えください」と返事をした。N先生は直接の担当ではなかったが、手術後の傷跡のガーゼを2度ほど替えてくださった。一歩離れた所から、カオルくんの闘病と私たち家族の闘いを見続けていた。

看護婦さんの処置を、いったん病室を出て待ち、ふたたび戻ると、カオルくんの顔はもっとスッキリしていた。「お疲れさま」と、何度も心の中でつぶやきながらビデオを回し、写真を撮った。カオルくんはまだ温かいのに……。なぜ? 息子はのどが乾いたと、水分をとり休んでいた。

Sくんたちが病室の荷物をまとめてくれた。長い入院の間、荷物を増やさないように努めていたつもりだが、やはり知らず知らずのうちに、かなりの量になっていた。息子が描いていた“おとうさんの似顔絵”を壁からはがすのが辛かった。ねえカオルくん、魂はさまよってるの? 体から抜けて周りにいるの?

「亡くなられた時に、着せたい服があれば……」と、看護婦さんに言われ、2月21日の危篤時、あわてて家から持ってきたのは、安さが自慢の量販店のスーツ。ごめんねカオルくん、安物で。あわてたから上下の組み合わせがわからなくて……。でもいいよね。当時、かなりのご自慢で、自分の父にも、私の義兄にもプレゼントしてたものね。パンツは香港で買ったスヌーピーのだよ。シャツはおろしたてのBVD、ワイシャツはさほどくたびれてないし、靴下もおろしたてのポロだよ。どお? いいかな?

しばらくして、カオルくんは霊安室へ移動となった。地下の霊安室で、白い布で覆われた父親を目にしても、息子ふたりは何も聞かない。小ぎれいな霊安室には、造花の菊が用意されていて、それを遺体の前に捧げ、家族が順番に手を合わせる。この頃にはKくんも来てくれて、手を合わせてくれた。I先生が死亡診断書を持ってきてくれ、M先生(主治医のM先生とは別人)と共に手を合わせていかれた。当直の看護婦さんが3人ほど入れ替わり手を合わせに来てくれた。看護婦さんというのは、入院患者の余命についても把握しているのだろうか……。もちろん、家族よりも詳しく知っていたに違いないのだろう。

カオルくんを少しでも早く家に早く帰らせてあげたいと思い、深夜1時に迎えの車と共に病院を出た。カオルくんが乗っている寝台車には、私とちづちゃんが乗った。逝ってしまった人と帰宅するには、深夜でよかったと思えた。昼間では信号につかまるし、高速道路も混んでいるし。

まだつぼみもふくらんでいない桜が並ぶ道から、上野の街へ出た。「カオルくん。ネオンだよ、上野だよ。もうすぐ高速に乗るよ」東京タワー、お台場、レインボーブリッジ、羽田、横浜ベイブリッジ。大黒埠頭のパーキングには親子4人で何回か降りたことがあるよね。マリンタワー、氷川丸。みんな一緒に行ったよね。やがて高速を下り、自宅が近付いてくる。「カオルくん。帰ってきたよ、横浜に」家族でよく来た“ちゃんぽん屋”、日曜日によく車で走った道。すべてが懐かしい。「カオルくん。帰ってきたよ、洋光台に……」自宅では、義母が庭の明かりをつけて私たちを待っていた。私は、「ただいまー」と言って、義母と手を握りあった。

Sくん、Sちゃん、Nくんが、カオルくんの帰宅を手伝うからと、車で我が家に向かってくれていた、だが、道に迷ったらしく、少し到着が遅れた。家では、カオルくんの帰宅の用意を始める、義父のベッドをたたみ、タンスを移動。カオルくんを迎える部屋のタンスも移動。Sくん、Sちゃん、Nくんがガンバってくれ、男手が3人あると、やることは早い。カオルくんを迎え入れる準備が整い、庭側の義父母の部屋から、息子の勉強机のある部屋へ。よかったね、カオルくん。やっと、やっと家の布団で眠れるね。

布団にカオルくんを寝かせると、ドライアイスがあごに挟み、カオルくんの口を閉じる。頬の周りにもドライアイス。寒がりだったカオルくん、冷たくてかわいそう。ちづちゃんと義母が団子をつくる。こんもり盛ったごはんに、愛用の箸を刺す。カオルくんの7か月半ぶりの帰宅は、冷たい冷たい体での帰宅。けれど私は、悲しみを感じるより先に、カオルくんが家に帰って来られたという、不思議な安堵の想いがあった。

カオルくんの隣に布団を敷きつめて、ちづちゃんと眠りについたのは、もうすぐ夜が明ける3月4日の、午前4時だった。

3月4日(火)

2時間ほど眠っただろうか。6時過ぎに目が覚める。11時に葬祭ホールの担当者が打ち合わせに訪れる。それまでにいろいろと尋ねることなど下準備をしておかなければ。私の実家から義兄と母親が朝早く到着。カオルくんの姿を見て、母親は肩を震わせて泣いた。涙にむせぶ母の姿を見て、カオルくんのことを本当の息子のようにかわいがってくれていたのだと感じた。

私、ちづちゃん、兄、義兄、姉、カオルくんの父母が葬祭ホールのNさんと話を進めた。2月初めに見学をし、ここでやろうと決めていた横浜・新杉田のホールのNさんとは大まかな話をしていたので、ひとつひとつが結構スムーズに決まっていった。

午後。墓の寺の住職に電話を入れる。「遠いなー。早ぇなー」と、言う住職。愛する人を亡くし、心病んでる中での、お願いの電話なのに、ぶっきらぼうな受け答えに涙が出てしまった。これから出かけるから、また夜に電話してくれ、と言われ、いったん電話を切った。そして21時、ふたたびドキドキしながら電話を入れると一杯入ってご機嫌なのか、昼間の態度より柔らかくなり「ファックスが届いたのを見たら、車でよく通る所なのでね、両日とも自分で運転して伺いますよ」とのこと。そして、戒名代も二日間の御布施も良心的な値段でホッとした。あ〜〜よかった。ひと安心。

きょうちづちゃんは自宅に戻ったので、今夜は私がカオルくんの隣に眠った。

3月5日(水)

隣で横になりながら、カオルくんを見ていると、ふつうに眠っているようにしか見えず、今にも起きてきそうなほどだ。一日中こうやって、ず〜〜っと見続けても飽きないだろう。カオルくんの前にぼんやりと座っていたい気持ちは山々だが、きょうはやること、決めることがたくさんあってバタバタ、バタバタ忙しい。

カオルくんの会社の社長より枕花が届けられ、葬祭ホールからの花と共に故人の周りは温かな雰囲気となった。Aさんがホームページのプリントアウトしたものを(通夜、告別式の会場に展示するため)持って、我が家を訪れてくれた。当初、宅配便で送ってくださることになっていたのだが、Aさんご本人が宅配便になってやって来てくれたのだ。遠いのに申し訳ない。2月8日の病室でのカオルくんと私のツーショットは、まるで映画のシーンのようで、自分とは思えない。Aさんはゆっくりお茶する時間もなく、写真を置くと去っていかれた。

午後。Kくんがお線香をあげに来てくれた。仕事、平気なの? 夕方。まあきの幼稚園入園前のサークルで仲良くなった“のぶりん”が来てくれた。何か買っていくものある? のメールに牛乳とサラダよろしく! と送った。やはり女性らしい気づかいで嬉しかった。私のホームページを通してのぶりんも夫婦の関係について考えさせられたと話してくれた。前後してカオルくんの生まれ育った大和の親友MくんとKくんがお花を持って来てくれた。3人でよくサーフィンに行ったということはよく聞かされた。結婚前の私とカオルくんの恋模様を、よく知る人物だ。

ちづちゃんが、今晩カオルくんの隣で眠ってくれることになり、私はカオルくんに謝って2階で眠ることにした。カオルくんの隣で休みたい気持ちはもちろんだが、いつもの寝床で、少しでも体を休ませたい気持ちも正直な思いだ。

昨夜は夫婦水入らず。今夜は兄妹水入らずだね♪

3月6日(木)

葬儀まで中3日あっても、何か忘れ物はないか、あれこれ不安だらけだ。ホールの担当Nさんは「ご心配なく。当社にお任せください」と頼もしいが、私は心配だらけだ。

まず、
☆カオルくんの知人、友人に訃報が届いているか。伝えもれがないか、大事な人を忘れていないか?
☆天気予報によると明日は雨。道案内をしてくださる方が風邪をひかなければいいが。
☆葬儀内容をほとんど私が決めてしまったが、カオルくんの両親に不満はないか?
☆住職は遠くから自分の車で来るというが、式に遅れたりしないか?

そして、いちばん私を悩ませたのは弔辞だった。
カオルくんは現役の社員だったので、通常は会社の方にお願いすべき……と、周りは口を揃えて言う。確かにそう思う。カオルくんの会社のSさんにその旨伝えると「我々に気兼ねせず、カオルくんの古くからの友人に頼まれたらどうですか?」との返事。

弔辞の件はなかなか決まらず落ち着かない中、ひとつ心配がなくなったのは、住職が通夜の晩、近くの磯子プリンスホテルに泊まるということだった。「ホテル代は気にしないでください。自分で払いますから」……と。しかし天気予報は雨のまま。それも斜め45度の角度で、雷を伴う春の嵐だという。勘弁してよー。これ以上いじめないでよー。心配事を残したまま時は経っていく……。

ふー。いよいよ、いよいよ明日だ。今夜はふたたびカオルくんの隣で眠った。横を向くとカオルくんの横顔が見える。カッコいい横顔が見える。

3月7日(金)その1

朝、目覚めるとカオルくんの横顔が見える。それもこれが最後なんだ。Sくんからメールが入る。弔辞はOさんに決まりました、と。よかった……。カオルくんはOさんをずっと兄のように慕っていた。私も闘病中、Oさんの声を聞くと、姿を見るとホッとしたのだ。嬉しかった。

義兄が姪と朝、到着。ちづちゃんも到着。姉と母親は5日にまあきとようきを連れ、一度中野島へ帰ったが、昨日ふたたびこちらへ戻っている。まあきが4日の夕方「今日はどこへ泊まるの?」と私に尋ねた。そういえば、父親が亡くなくなる前後は、毎日、寝る場所が違っている。自分は日々どこで眠るんだろうと心配だったのかな?

昼過ぎ。兄が義姉と共にチャーハン弁当をたくさん作って持って来てくれて、にぎやかなランチとなった。15時過ぎに、葬祭ホールの方が見える。だんだん緊張してきた。なんとも胸が苦しくなってきた。まあきが「みんな黒い」と、皆の着ている服を見て不思議そうに言った。

葬祭ホールの方が到着。Nさんの他ふたり見える。家族が順番にアルコールでカオルくんの手、顔を拭く。棺が運び込まれ、カオルくんの納棺だ。お別れの品を入れる。まず愛用のギター、大好きなサイモンとガーファンクルのテープ。そして、まあきは地球儀、ようきは“カネゴン”のフィギュアを納めた。私は世界中をたびすることが大好きだったカオルくんのパスポートと写真、それからカオルくんに宛てた手紙。“恋ふたたび”のプリントアウトしたものを便箋代わりにしたものだ。

庭側に停まっている寝台車に、カオルくんの棺と私とちづちゃんが乗る。16時出発。他の家族は兄とちづちゃんのご主人の車で後を追う。休日、家族で通った道をこんな形で通っている。「カオルくん、洋光台から杉田に出るよー」
心配していた雨は、天気予報で聞いていたほど土砂降りにならず……。どうかこのまま止んで、と祈る。

ホール到着。入り口に「故 ○○薫葬儀」の文字。まるで自分のことではないようだ。エレベーターで3階の式場へ。花の祭壇はイメージとほぼ同じで、親族からの花には、すでに木の札が立てられていた。喪主の私は喪服を着る。こんな若さで黒い着物を着るなんて、すごい人生だとつくづく思いながら、どんどん“喪主の気持ち”へと変わっていく。背筋がシャンとなり気持ちいい。思わず帯をパンッと手のひらでたたいてしまいたい。カオルくんの友人に「どう、似合う?」と尋ねた。

3月7日(金)その2

会社関係の札はいろいろと難しいので、会社の方が来られてから決めていただくことにして、テーブルの上に並べておいた。弔電も多数届いていて、明日の告別式で紹介するもの13通ほどを選ぶのも難しい。その13通の弔電のうち、全文を読み上げるのは3通、残りは名前だけとなる。映画関係に詳しいKくんと共に目を通し選ぶ。その間、カオルくんの会社の方が「心配いらないですよ」と、私が安心できるよう声をかけてくださった。上司の方に挨拶をし、友人に声をかけられ、葬祭ホールの方と打ち合わせをし、まるで二度目の結婚式が始まるようだ。

雨だけを気にしていたところ、JR京浜東北線が人身事故で止まっているとの知らせが入る。勘弁してほしい。まだ17時を過ぎたところ。通夜開始前には運転再開となるだろう……。

お花の札の位置をたびたび変える。会社関係の札の位置も決まっていく。通夜ぶるまいの会場に、闘病中の写真を中心に貼った。

いよいよ通夜が始まった。親族の席にOさんとTさんが座ってくれて感激だった。会葬者の第一陣は、町内のよく知る方たちだった。続いて息子たちのPTAのよく知る顔が並ぶ。小学校の校長先生も、副校長先生も、担任の先生も元担任の先生も。そして、卒園した幼稚園の先生方も……。あの人も来てくれた。この人も来てくれた。息子の公園仲間のお母さんも……。

離れた席から、ひとりひとり目で挨拶をした。まあきとようきに「先生、来てくれてるよ。お友達、来てくれてるよ」と、ときおり小声で伝えた。その後は、お名前のわからない方たちが多かった。映画関係なのか出版社関係なのか、イスラエルのキブツ関係なのか……。“どなたですか?”と、ひとりひとり確かめたい気分だった。

年賀状のやり取りでは、カオルくんの知人の宛て名は私が書くことが多かったので、お名前だけはフルネームで知っているという方が多いが、面識はない方が多いのだ。胸に大きく名札を付けていてくれたなら……と、思ってしまった。

会葬者の方の3分の2ほどは、どなたなのだろう? の想いでひとりひとりに目配りをし、感謝の会釈をしたつもりだ。面識のある方には、さらに熱い想いがこみ上げた。Iくん、Nくんをはじめ、病室に数回お見舞いに来てくださった幾多の方から「来たよ!」と声なき想いが瞳から感じ取れ、「ありがとう。ありがとう」と、声なき想いを瞳で訴えた。

夫の友人、知人であって、私の直接の友人、知人ではないものの、やはりカオルくんとの10年の結婚生活で、私も少しはカオルくんの友人、知人の仲間入りができていたのかな? 喪主という悲しみの立場の中で、ひとりひとりのお焼香が本当に本当に感謝の想いで一杯になり、幸せさえ感じていた。

私の高校時代の友人、バレエの友人も来てくれていた。「来たよ!」誰もが私を見つめてくれた。次々と焼香の列は続く。その数はものすごかった。そして、誰もがものすごく凛々しくて素敵だったのだ。日頃から思っていたカオルくんの友人、知人は皆、それぞれに格好よくて魅力があると……。こんなに素敵な方たちと日々仕事をし、お酒を飲んでいたんだね、カオルくん。たくさん、たくさん来てくれてるね。すごいね。嬉しいね。

3月7日(金)その3

受付などの手伝いをしてくださったカオルくんの会社の方々や、大学時代の友人は、最後のほうで遅れての焼香となった。式を終え、通夜振る舞いの会場へ急ぐと、学生時代の友人、キブツ時代を共にした友人たちが残ってくれていた。何人かとお話はできたのだが、会話の途中途中で「お先に」と声をかけられと、そのほうが気になり、また別の方から声をかけられてと、落ち着いて話をする間もなく、ひとりひとりとじっくり話せなかったのが悔やまれる。

葬儀を終えてから聞いたことだが、「奥さんにどう声をかけたらいいのかわからず、声をかけそびれた」と、いう意見もあった。とても残念だが、相手の方だって悩まれたに違いない。名乗ってくださるだけでも正直、嬉しかった。これだけ多くの方がわざわざカオルくんのために足を運んでくれただけでも充分、満足できると思いたかった。

息子のまあきとようきは、私の姪とそのBFに手助けされながら、待ってましたとばかりにお寿司に手を伸ばし、楽しそうに食べている。元気でよかった、ふたりいてよかったと、つくづく感じた。私はというと、カオルくんの友人、知人に会えたのが嬉しくて嬉しくて、涙どころではなかった。21時40分ごろまでにぎやかな食事をし、「気を落とさずがんばってください」「イスラエルでカオルさんが写っている写真、探します」「また明日、来ます」と、さまざまな励ましの言葉をいただいてのお開きとなった。

カオルくんに会おうと式場へ向かうと「ナミエちゃん!」という声が聞こえた。ちえさんだった。カオルくんが中国旅行を共にした女性で、顔を見ると思わず泣いてしまった。

さてさて喪服を脱ごう! 姉に手伝ってもらい、身がどんどん軽くなっていく。明日またこれをもう1回着るのだ。

その夜は家族みんなで葬祭ホールに泊まった。私、ちづちゃん一家、均兄夫妻、私の姉夫妻、カオルくんの従兄弟。そして、棺を守ると言って帰らなかったカオルくんの高校時代のガールフレンドの計9人で、それはそれは楽しい飲み会となった。通夜なのに、こんなに楽しくていいのかと思うほどで、それは、ちづちゃんのご主人と均兄と私の義兄、カオルくんの従兄弟が仲よく飲み出したことから始まった。

親族である男たち4人が集まったのは、もちろん初めてのことであり、それまでお互いほとんどじっくり話したこともなかったのに、通夜を終えたという連帯感からなのか、それはそれは仲良く、にこやかだった。女性陣も一日を無事に終えたという安堵感の笑顔だった。このメンバーでお酒を飲む機会をつくったのは、カオルくんの死という悲しい出来事であったのが、複雑な想いもあったけれど……。

通夜の席から会葬者を迎えた時も、これだけの人がひとつの時間、ひとつの場所に集まることなど、普通はないよ。普通じゃないからなんだけど、改めてカオルくんという人間の偉大さを感じた。彼は死してもなお、人と人とのつながり、交わりを私たちに教えてくれていた。

のりちゃん(私の義兄)がお坊さんの席に座り、木魚をたたき弔いを始めた。のりちゃんはスキンヘッドなので本当の坊さんのようで、みんなで大笑いしながら一緒に弔った。
「いい人に〜〜囲まれて〜〜、カオル〜〜、カオル〜〜」
私はジーパン姿に、足元は喪服の草履……という格好で、ちづちゃんに「おみこし、かつぎそうだね」と言われた。

3月8日(土)その1

深夜2時まで騒いでいたので、朝がつらく、なかなか布団から出られなかった。心配していた二日酔いはなくホッとしたが……。

二日酔いを心配していた41歳の喪主なんて、私ったら……。
ふたたび喪服を着て心が引き締まる。外は青空だった。春を感じる空だった。

受付に降り、カオルくんの会社の方、友人、知人に挨拶をし、弔辞を引き受けてくださったOさんに「よろしくお願いします」とお礼を言った。出棺のときギターを演奏してくださるカオルくんの友人のSさんにもお会いした。最後のお別れの時は刻々と近づいていたが、春の陽気が私の心を励ました。

10時半。告別式が始まった。前夜の通夜に焼香に来てくださった方ほとんどで、きょうは少ないかも……とだ思っていたが、告別式も数多くの方が焼香に訪れてくれていて、会場にあふれるほどだった。昨日、今日と二日続けての方も多く見られた。

地元の元町内会長であるUさんより追悼の詩吟をいただいた。

神々となり仏となりてしずまるも
折々帰れ、妻、子供らの夢路に
人生は夢の如く、またけむりの如し
君逝いて、茫々転々暗然髣髴たる
温容呼べども応えず
大空漠々恨み綿々

弔辞はO氏よりいただいた。

カオルくん、君にこうしてお別れの言葉を述べるなんて、夢にも思っていませんでした。

今、目の前の君の遺影を見ていると、なんでこんなに若いのに、まだやりたいことがいっぱいあったはず。なのに……と、私も悔しくて残念でなりません。君とは出会いから今日まで、本当に義兄弟のような付き合いをしてきました。だから私は君のいろんな顔を見てきました。

大学を出たばかりの初めて会った時の、あの凛々しい顔。いい男だったよなぁ。一緒に映画の仕事をするようになって「楢山節考」の新人女優に惚れられて、どうしましょう……と嬉しそうに話したあの時の顔。ある外国スターが来日して「日本の風呂に行きたい」と言った時、どっちの風呂だろう……と相談してきた困った顔。会社を辞めて突然、イスラエルのキブツへ行くんだと言った時の自信に満ちていた顔。

みんなみんな思い出すのは懐かしい顔です。
ガッツがあって、とっても好奇心が強くて、だから外人でも日本人でも、誰とでもすぐに友達になってしまう。君はそんな気さくな男だったよね。

十数年前、初めてこの病気に襲われた時、君はその前向き不屈の精神力で、見事に病魔に打ち勝ったはずでした。だから……私は今度もきっと回復できると信じていました。でも半年間、本当によく頑張ったと思います。奥さんのナミエさんの寝食を忘れた看病ぶりにも、見舞いに行くたび私は感動しました。この素晴らしい奥さんと、二人の可愛い子を残して先に行くのだから、君はさぞ無念だろうと思います。

だからこそ
カオル! お前は天国へ行っても安らかに眠ったりなんかしてちゃダメなんだぞ。奥さんと、二人の子供が立派に成長するまでしっかりそこから見守ってあげるんだよ。

君のことは決して忘れません。
さようなら。

カオルくんの生きざまがよく伝わってくる、生前の彼の笑顔さえも甦る素敵な、温かな弔辞でした。やはりカオルくんのことを本当に理解してくれていたんだと、感謝感激の弔辞だった。Oさん、本当にありがとう。

3月8日(土)その2

棺が祭壇前に移動され、カオルくんの大学時代の友人Sさんが、棺に眠るカオルくんのお顔のそばで『イマジン』をギターで弾きはじめてくれた。まず私と息子ふたりが花を添えた。私はカチカチに冷たくなったカオルくんに思い切りkissをした。最後のkissになった。続いてちづちゃん、均兄と次々に親族が花を手向けた。そしてSちゃん、Yさん……カオルくんの大学時代の親友だ。友人、知人が次々と花を手向ける。棺のそばにいると髭の似合う、爽やかな感じの男性が私に近づき名乗った。

「Hです。琉球ガラス入れてもいいですか?」と言う。沖縄に友人がいることは、カオルくんから聞かされていた。そして、数年前から「ゆくゆくは沖縄に住みたい」と言っていた。4年前、カオルくんは沖縄を訪れHさんと会っている。「“沖縄はいいぞー。物件、探してあげる”と言われた」と言っていたのを思い出した。手術の数日前「今すぐは無理だけど、数年したら沖縄に住みたいな」ベッドの上でそう話す彼に「そうしようね」と言った。そして手術当日の朝6時前に<手術、がんばる…………数年したら、沖縄に住もうね…………>とのメールが届いた。沖縄は私たちふたりの終の住処のはずだった。老後をのんびり暮らすはずだった。

葬儀の打ち合わせの中で、Hさんからの電話を取った。「お弔いに伺います」と。私は告別式の日、棺のカオルくんに声をかけた。「沖縄から来てくださったよ」小さな琉球ガラスはキラキラと輝き海の色に思えた。カオルくんは復活を信じていたのだ。体が不自由になったとしても、復活できると信じていたのに。葬儀終了後数日して、ホームページにHさんからメッセージが届いた。「息子にカオルさんのことを話します。沖縄めんそーれ!!」Hさんが、カオルくんが最初にイスラエルのキブツへ行った時のメンバーだったとは、メッセージで後から知ったのだった。

Sさんの演奏する『イマジン』はせつなく悲しく流れ続く。臨終のときもそうだったのだが、棺にお花を入れるときから、ようきはずっとしゃっくりが止まらなかった。カオルくんはしゃっくりが出やすかったのを思い出した。まあきとようきは、ずっと何ひとつ尋ねてこない。“お父さん死んじゃったの?”なんてことは一度も……。だから私は今日まで何も話さずにきたし、これからも説明しようとは思わない。聞かれたら答えるだけだ。幼いなりに懸命に父親の死を受け止めているのだろうから、あえて問いただすようなことも、説明もしない。

闘病中、カオルくんの会社の方から励ましのメッセージを寄せた色紙をいただいた。病室にずっと飾ってあったのを棺に入れようと、会社の方を探すと、親身になってよく病室に足を運んでくださっていたU部長がいらっしゃった。「色紙を入れてあげてくださいますか?」とお願いすると、顔を崩し、涙ぐまれた。親族に続いて友人、知人がお花を手向ける時間はかなり続いたのに、私はなぜ声をかけなかったのだろうと、葬儀を終えてから思った。「来てくださってありがとう」と、ひとりひとりに声をかけられたはずだった。お別れなんだ……信じがたい現実を前にして、自分でありながら自分でないような。現実でありながら夢の中のような。心も体もフワフワとしていた。後から後からもっといろいろできた、と悔いを残した。

後日、友人から聞いたのだが「みんなみんな泣いてたわよ。お兄ちゃんが袖でササッと涙を拭ったのよ。それを見て、みんなみんな泣いてたわ」知らなかった。長男まあきが、実は涙を見せていたことを。いつもひょうひょうとしているまあきが、気づかれないようそっと涙をぬぐっていたことを。

均兄は告別式の初めから声を出し泣いていた。無口な均兄が泣いていた。みんなみんな辛いんだ……。棺に埋まっていく花、花、花……。「どうして俺が送らなきゃならないんだよー」あの口下手な兄。ラーメン店主でお客さんに世間話を持ちかけられても、上手く話せない、あの兄が言葉にしている悲しみは、口下手な兄をも声にさせるほどだった。

棺にクギが打たれる。最後にカオルくんの父が打つ。私は喪主として挨拶をした。たぶん私は、入院当初からずっと頭の隅に心の隅に喪主になるかもと身構え、心構え挨拶をも考えていた。それは、助けたい、助かるという希望とともに常に平行して持ち続けていた。普通、出棺の挨拶は喪主に代わる親族がすることが多く、カオルくんの両親も均兄に、と言っていたが「私がしたい!」と宣言していた。

葬祭ホールの方は「悲しみで喪主が倒れて救急車を呼んだことも何度もありますよ。挨拶も涙でできなくなることが多く、それで喪主以外の方とする家族もおられます」と言う。私は大丈夫!! 絶対、泣き崩れることはない。なぜか自信があった。あまり長くてもと思い、挨拶は短くまとめたが、なにも短くすることはなかった。これだけ大勢の方が出棺まで見送ってくれている。もっとたくさん話したかったと、また後悔……。

外は春の青空。そよそよとした空気。式場前の道路を埋めつくす多数の人たち。ありがとう。ありがとう。私は心でお礼を言った。

火葬場まで来てくださる人もかなりの数だった。高速に乗る。おととし旅行した時、家族4人で楽しくこの道を通ったね。「カオルくん、カオルくん。いい天気だよ」霊柩車には私とまあき、ようきとちづちゃんが乗る。「戒名は天国での名前なんだよ」と、ちづちゃんが息子に教えてくれていた。私は数々のドライブの思い出がよみがえり、苦しくて苦しくてならず、胃が張り裂けそうだった。

横浜南部葬祭場は新しい建物で、黒い人があちらこちらにいる。足の悪いカオルくんの父がついて行くのに大変なほど足早に案内される。本当に最後のお別れだ。住職とともに手を合わせ、いちばんの近親者である私、まあき、ようき、ちづちゃん、均兄、ひで子姉が奥へ。あの嫌な嫌な最後の時だ。棺が窯に入り、そして閉まる。身も心も砕けてしまいそうな悲しみだ。こんなにも若く早く、私はカオルくんを送るなどとは。心臓も胃も脳みそも血管も神経もすべてが粉々になりそうなほどの悲しみで、私は倒れそうだった。

そして長い待ち時間。40人を超える人たちが残ってくれていた。まあきとようきは、お父さんをよく知るおじさん、おばさんがいてとても楽しそうにお菓子を食べている。1時間ほどでアナウンスが流れ、ふたたびあの嫌な嫌な部屋へ。近親者が呼ばれ奥へ行く。その白い白いカオルくんの骨は、頭はバラバラで肋骨あたりから形がわかる。まあきとようきに、ここが腰でここが太もも……目まいがしそうな悲しみの中でも、冷静に話している自分がいる。ようきと骨を拾い脇へそれた。

次々に骨を拾ってくれる、なじみの顔。カオルくんの魂はそこらにいるのだろうか。姿がなくなっても、どこかで見ているのだろうか。最後に「喪主の方、もう一度お願いします」と言われる。そこにはMくんがひとり待っていた。Mくんは私たちの結婚式で「南京玉すだれ」をやってくれ、会場を笑顔にしてくれた人だ。私とカオルくんの恋模様をいちばんよく知る人物としては俊ちゃんと肩を並べる。家にカオルくんが不在でも遊びに来てくれる人。カオルくん抜きでも友達と呼べる。そのMくんと最後の最後に骨を拾うとは……。スキーに行った日がよみがえる。飲んで騒いだ日々が昨日のようなのに。

冷たいとはいえ、さっきまで、ついさっきまでカオルくんの姿があったのに、深い青色の骨壺に入ってしまうほど、小さく小さくなってしまった。すべての骨がお墓に入るなんて耐えがたく、小さな小さな骨壺にも骨を入れた。

ふたたび葬祭ホールへ。骨を拾ってくださったすべての方が初七日の法要までいてくれることになった(注:最近では、告別式と同じ日に初七日の法要を行うことがあります)。遺影と戒名と、そして遺骨。SちゃんとSくんとYさんに囲まれ、私がカオルくんを抱き写真を撮った。霊でもいいから写真に映って、と私は正直思った。会いたい。霊で出て来て、と。

昼下がりから夕方へと移るころ、会は終わった。カオルくんは小さく小さくなって、ふたたび我が家への帰宅となった。母親と姉は私を心配し泊まってくれた。姉と夜中まで通夜・告別式の2日間を振り返ったり、カオルくんとの恋模様の話をした。姉とは4歳離れているので一緒に遊ぶこともなく(幼いころは遊んだが)、女同志の会話もさほどすることもなく、ようやく私が高校生になって少しは同等の会話ができたころには、姉は嫁に行ってしまった。だから私がめちゃくちゃ飛び跳ねていた20代を深くは知らず「そうだったのー?」と今ごろびっくりしてることが多い。お姉ちゃん、ありがとう!!

お姉ちゃんがいてよかったよ。そしてお義兄ちゃんも。本当にいい人と結婚してくれたよね。母親と父親(8年前に他界)と一緒に住んでくれていて感謝しています。これからもどうぞよろしくね。カオルくんも、きっと私たち家族に感謝していたよ!!

3月9日(日)

カオルくんのために朝ごはんの支度をしないと……寝坊をしていられず、遺骨に炊きたてのごはんと味噌汁を供える。「おはよう!!」

夜は近くのお好み焼き屋へ。私たち親子3人と母親と姉と行った。もんじゃを頼んだが、店のママに焼いてもらった。ママはもんじゃを焼きながら「いつもお父さんが焼くのよねー」と言う。そう。カオルくんはもんじゃの焼きかたにうるさかったので、いつもお父ちゃんまかせだった。だから私は焼きかたを知らない。ママさんは訃報を知らずにそう言ったのだろうか。覚えていてくれて嬉しかった。

3月10日(月)

まあきとようきはランドセルを背負い、お父さんに線香をあげてから元気よく登校して行った。その後、姉と母親が区役所に行くのに付き合ってくれた。これからいろいろな手続きに必要な謄本、住民票などをとったが、どれもがカオルくんの名前が大きなバツで消されていて、それを目にしたとき胸が苦しくなり、胃が痛くなり涙が出てしまった。

ひとりではつらすぎた。

姉と母が付き添ってくれて本当によかった。「大丈夫? しっかりね」と言ってふたりは中野島へ帰って行った。

3月13日(木)

カオルくんが勤めていた会社へお礼の挨拶に伺った。カオルくんが働いていた会社を訪れるのはつらくない。まあきが「お父さんの会社はどこにあるの?」と聞いてきた。息子ふたりを今度連れていきたいと思った。お父さんが働いていた場所を見せておきたいと思った。

3月14日(金)

社会保険事務所へ遺族年金の手続きに行った。1時間30分待った。いつ行っても混んでいるのだ。私の番号が呼ばれた。係の人は私より10歳ほど年上に見えるきれいな女性だ。「遺族年金の手続きに来ました」と言い、除籍謄本などの必要書類を提出する。

「こちらに記入してください。同じことをこちらにも……」
と、係の女性は淡々と機械的に手続きを進める。
「会社はちゃんと厚生年金を掛けてくれていたのね……」
「はい。本当によくしてくれたんですよ……」
女性の言葉に、カオルくんが勤めていた会社のやさしさを思い出し、あらためて愛しい人を失ったという悲しみに包まれ、涙がジワジワこみ上げてきた。

「決定まで3か月ほどかかります。証書が郵送されますから」
係の女性はカオルくんのオレンジ色の年金手帳を他の書類とともに持ちながら言った。「その手帳は?」返してくれないのかと尋ねると、「これは回収になります」と言う。「えっ?」しばらく事態がわからずにいたが、そうか亡くなったのだから回収になるのか。「えっ、そうなんですか……? そうなんですね……」

今までずっとずっと私の年金手帳とぴったりくっついて保管してあったのに、お別れなんだ……。涙があとからあとから、あふれてくる。そんな私に、「あなたなら大丈夫よ。しっかりがんばって!」冷たく見えた係の女性が柔らかくほほえんでくれた。

3月15日(土)

まあきとようきは午前中、小学校の囲碁教室へ行き、午後は水泳と体育をやるためにフィットネスクラブへ行ったので、ホッと一息できた1日だった。少しずつ日常が戻ってくる。

3月16日(日)

家族で位牌をつくりに世田谷・野毛の仏具店へ行った。日曜日はつらい。行く先々で出会う親子連れは、みなお父さんがいる。

3月18日(火)

カオルくんの銀行の手続きなどで桜木町に出た。ランドマークでかわいいカットソーを買い少し元気になれた。

3月21日(金)

義兄のお父様が亡くなり、葬儀のため実家へ行く。お正月、まあきとようきのふたりは義兄のお父様に会っていて、楽しそうに一緒に食事をしている写真もある。まあきが「えー!? おじいちゃんも死んじゃったのー」と言った。

3月22日(土)

義兄のお父様の通夜へ。祭壇の棺を見てふたりは「お父さんと同じー」と言っていて、つらかった。こんなに幼いのに……。私は受付を手伝った。カオルくんの通夜を思い出す。あの晩の苦しさ、切なさがよみがえる。

3月23日(日)

昨夜は通夜を無事に終え、実家に泊まった。シャワーを浴びすぐ布団に入ると母親がドライヤーで髪を乾かしてくれた。それを見た姉は「わー、いいなー。私、乾かしてもらったことない」と言った。昨夜に続いて告別式の受付を手伝った。

出棺のとき、まあきとようきが手慣れたように花を入れている姿がつらかった。火葬場はさすがにあまりのつらさで吐きそうになり、義兄の親族の中には入れず遠ざかってしまった。気持ちが悪く頭がグラグラした。待ち時間は息子や甥、姪たちが遊んでいる姿に癒されたが、お骨は拾えず遠くから眺めていた。ここの火葬場は“これはどこの骨、これは何々、どこどこの骨”と詳しく説明をしてくれていたので、気になり近づいた。喉仏だ……。そういえば、カオルくんの喉仏は判らなかった。「いったい喉仏はどこにあったのだろう?」カオルくんの骨壺を開けて確認したくなってしまった。初七日の法要に出席し、自宅へ帰ったのは午後4時過ぎだった。

3月24日(月)

義父に隣町・港南台にある、かかりつけの眼科で目薬をもらってきてほしいと頼まれ出向いた。闘病後、初めて訪れたその街は、かつて日曜日、親子4人でたびたび買い物に訪れた場所だ。ショッピングセンターで私は足がすくんだ。カオルくんが楽しそうにアルコールを選んでいた酒屋の前で私は胸が苦しくなった。それからは4人での会話、行動が次から次へとよみがえり、吐きそうなくらい苦しくなってしまった。

3月25日(火)

親友みっちゃんが来てくれた。お線香をあげに……。親友とはいえ、家へ来てくれるのは初めてだった。なのにカオルくんはいない……。昔いっしょに遊んだカオルくんは、もういない……。

3月27日(木)

カオルくんの携帯電話がどうしても解約できない。今後は何かの時、息子に持たせようと主契約を私の番号にと変更に行く。Jフォンショップの方も初めての変更手続きのようでとまどっていたため、かなり時間がかかってしまった。手術の日の朝<愛しています>と私にメールをくれたこの携帯を手放すことなど、絶対にできない。

3月30日(日)

結婚する1か月前まで共に舞台に立った友人の、バレエの発表会を見に吉祥寺へ行った。開幕前、楽屋に顔を出すと一緒にニューヨークでレッスンをした親友まこちゃんが「ナミエちゃん!」と抱きついてくれた。10年間師事していた大谷先生は「大変だったんだってねー。ニコニコしちゃってー」と言った。

まこちゃんの踊りは上手くなっていた。家事と育児でボロボロの中での舞台。「体、動かなくなって」と言っていたけれど、ずっとずっと上手くなっていた。味が出てきていた。よき先輩である津上さんの振り付けも素晴らしく、きょうの舞台は私に夢と希望を与えてくれた。

3月31日(月)

二晩実家に泊まり、午後我が家へ戻った。洋光台に着き、買い物したものを持って歩きだすと、まあきとようきが「持ってあげる」とお手伝いをしてくれた。私は手ぶらとなった。スーパーの袋と私のバッグを持って、早く家に帰りたい様子のふたりの、かわいい後ろ姿を手ぶらで見る。

小さな幸せを感じた帰り道だった。