カオルくんの闘病記

分かち合いの会

私は新聞で目にした「伴侶を亡くした人を支える会」という小さな記事を切り取り、手帳に挟んだものの、なかなか参加希望の電話ができずにいた。夫が逝ってしまってから、周りの人は何もなかったように接してくれ、それは優しさだと感じているが、私は夫のことを話したくて話したくてたまらない毎日だった。けれど、ランチに誘ってくれる友人に私の胸の内を語っても、どんな言葉をかけていいか困るだろうし、夫の友人は多忙でなかなか会えない。だから、「支える会」は私が探していた場だったのである。

その会は、第一・第三土曜日の昼、浜田山(東京・杉並)で行うものだった。パートやバレエで息子との時間が少なくなっていたのと、場所が家から遠いということ。そして一番悩んだのは既に「死別」の悲しみを乗り越え、仕事と趣味をはじめ、新しい生活をしているのに、過去に戻り「死」の確認を行ってもいいのか、その作業で自分がどうなってしまうのか怖かったのだ。でも、一周忌を迎える前に事実を見つめてみようと決心し、電車を二度乗り換え会に参加したのだ。

横浜から渋谷までの電車の中では、勤めはじめたころ(私は自由が丘で働いていて、夫とは自由が丘で出会った)を思い出し、渋谷から浜田山までの井の頭線の中では、バレエに明け暮れていたころ(稽古場が下北沢だった)を思い出していた。また並行して、「伴侶を亡くした人を支える会」には、どんな人が来るのだろう? 若い人はいるかしら? 病死? 事故死? 癌の人はいるかしら? などと考えていた。

「伴侶を亡くした人を支える会」は、地区会館の小さな会場で開かれ、12名の人が集まっていた。60代前後の方たちが大半で、自分と同世代の人が少なく、少し残念な思いがした。初回はどんな形で伴侶を亡くしたのかを、ひとりひとり話した。全員病死で9割が癌だった。そして、7割の方が医師と病院に不信感と怒りを持ち、ほとんどの方が入眠剤、もしくは抗うつ剤を常用していた。私と同じだ同じだ、とうなずくことばかりで、聞いているうちに、どんどん癒される思いがした。

そして、私がもっとも[よかった……私だけじゃなかったんだ]と感じ、救われたのは、会の代表の方がおっしゃったことだった。「新聞の死亡欄を見て、亡くなった方の年齢を我が家の場合と比べ、若いとほっとしたりする」というものだ。夫は44歳だったので、それほど若くして亡くなった方はそう見ないが、闘病中にそれでも2人ほどいたのだ。

その時、私は夫より若いと安堵した自分に罪をおぼえた。しかしそれは、身近に死が迫っている者の自然な心理だと、彼らは教えてくれた。会では自分のことを話す時は話し足りなく、人の話には涙が流れてたまらない。死別を乗り越えたなんて、ごまかしに過ぎなかったのだ。乗り越えたと思いたいのだそうだ。この会では、夫の闘病中も死別後も隠していた涙が自然に流れ、心も体も軽くなる気がした。

2003年10月25日

ナミエさんのメッセージ

突然の闘病からもうすぐ1年が経つ。
最後に元気だった6月。去年の手帳を見るのが怖い。
たった1年で人生は一変した。何も気づかなかった6月が憎い。
のんきにワールドカップサッカーを見ていた自分が憎い。
彼の肉体が消えてもうすぐ4か月。
振り返れば夫の入院、医師からの病気告知、闘病そして死……。
その間ほとんど私は泣いていない。涙を流していない。
臨終の瞬間は、悲しみより、終わってしまったという気の抜けた、妙な感覚だった。
涙ひとつ出なかった。
どうしてだろう? どうしてだろう? なぜ泣けないのかな?
悲しいのに、こんなに残酷なのに、ずっとずっと考えていた。
泣けない自分が不思議でたまらなかった。
今思えば死の瞬間より、腫瘍が二つあったとの電話を受けた、あの瞬間がもっともショックだった。
頭がグラつき熱が出た。
それからは、絶望を希望で打ち消し病室に通う毎日が、生きがいへと変わっていった。
毎日会える。そこへ行けば会える。単純に幸せだった。 なぜ頑張っていた彼が? とは恨んだが、なぜ私が? と問わなかったのは、きっとそれは心から愛していたんだと感じたからだった。
彼との結婚を選んだ自分を好きでいられたからだった。
出会ったころ、「こいつはやめたほうがいい。苦労するよ」と、ある方から言われたが、彼だから苦労を苦労と思わずにいられた。
そう。それは彼を心から愛していたから……。

2003年6月26日