ふたりの物語

餃子

(2003・夏)
ふだん生活している中で疑問に思うことが多々ある。食材の買い物をしている時よく思うことは、ラーメン、焼きそば、うどんなどの麺類(レトルトご飯も)や、ヨーグルト、プリン、ゼリーなどのカップデザート類は、ほとんどが三人分パックで売られている。出生率低下といわれている昨今だが、まだまだ子供ふたりの四人家族が多いように思う。

我が家では麺類の時、お父さんは一人分で、残り二人分を息子と三人で分けて食べていた。幼く食の細い我が子とダイエット母さんでは、二人分を分けるのでちょうどよかったのだが、息子たちの食欲が旺盛になってくると、私はほんの試食程度の量になっていったのに痩せなかったのはなぜ?

餃子の皮に関しては24枚入りを買うのだが、たまに25枚入りなんて売っていて“どうして割り切れない数なの? 残り一つを争うことになるじゃないのー” と、いつも思う。24枚だと四人家族では一人六個の計算になる。餃子のタネをつくると「何個ずつ食べられる?」と尋ねながら、小さな手で楽しそうに包む。焼き上がった餃子を食卓に出す時は、「一人六個だからね。六個だよ!」と力をこめ毎回念を押す。ふだんは食の細い息子たちに「よく食うなー」と夫は感心していたものだ。闘病中、餃子の時は翌日、病院へ持って行った。台所に残っているのを見つけ、食べたそうにしていたので「明日、お父さんに持って行くのよ」と言うと、「そっかー」とにっこり納得していた。

しかし、もうお父さんはこの世にいない。一人九個の計算になってしまった。私は今までどおり六個とし、遺影に二個供える。もりもり食べている息子たちの数が減っていく。「お父さんにもう食べたか聞いて、一個ずつ貰いな」と言うと、「まだ早いんじゃない?」と言いながらも立ち上がり、チンチーン♪と鳴らして「お父さん、貰うね。わーい合計九個だ!」と喜んでいる。以前より分け前が増えた喜びの背景に、父親の死があるなんて思うのは私だけで、息子たちのただ単純に数が増えたことでの笑顔に、餃子をつくるたび複雑な思いにかられる。

存在

(2003・秋)
朝、目覚めるということは死の確認作業でもあり、心も体も重く布団から抜け出すのが辛い日々が続いた。味噌汁の分量も、洗濯したバスタオルを干すのも、今までより一人分足りない。平日、家族四人が揃うのは朝食の時だけだった。あわただしい時間の中でも団欒があった。息子二人は大声でお父さんに「行ってらっしゃーい」を庭先で繰り返した。私はそんな姿をベランダで洗濯物を干しながら眺めることに幸せを感じていた。

夫の帰りは遅かったので、夕食は三人で済ませ、息子が眠ってからはテレビを見ながら旦那様の帰宅を待った。「ただいま」とドアを閉める音と声で疲れ具合が予想できた。ドラマやニュースを見ながら話した相手はもういない。ドラマを見れば「ふーん」と言いながらパソコンを叩く姿が浮かび、ニュースを見れば夜食をほおばりながら私に解説してくれた姿が浮かぶ。米国とイラクの戦争や、政治経済の話題の時などは、そばにいないことがことさらむなしい。

長男は初めてのクラブ活動にパソコンクラブを選んだ。父親が得意としたものを選んだことがとても嬉しい。「まあきはきっと上手になるよー。お父さんの子だものね!」と声を掛けると「うん」と生き生き答えてくれた。早速、我が家のパソコンでゲームを楽しむはずだったが起動しないソフトがあり「あー、こんな時お父さんがいてくれたら」と嘆いた。次男のようきも「お父さんとやった時はできたよー」と悔しそうだった。親子三人で頭をくっつけてあれこれ思案している姿に、天国で苦笑いしてるだろう。仏壇に向かって「お父さん、教えてー」とまあきが叫んだ。父親の不在を惜しむ心をはっきりと言葉にしたのは初めてだったのだが、悲壮感より父親の偉大さを認識している姿が微笑ましく、何よりも父親が確かに存在したこと、子供の心に残っていることが嬉しかった。

父親の存在は日々の暮らしの中に生きる。「お父さんが言ってたよ」「お父さんが教えてくれたよ」と、息子が時折、口にする。私は息子を叱る時、夫はなんと助言してくれるだろう? と天国に尋ねてみる。不思議に聴こえてくるのだ。<感情で叱っちゃだめだよ……それでいいんじゃない?>共に暮らした日々は短くとも、共に暮らした意味は深い。『クレヨンしんちゃん』を見ていると、父親がよく登場する。<いいなー。しんちゃんちにはお父さんがいて……>そう思う私をよそに、息子はふたりともニコニコして見ている。父親がいないことを不憫に思わなくていいのだと、ふたりの息子の笑顔が教えてくれる。

もし、友達に「お父さんはいないの?」と聞かれたら「いるよ」と答えていいんだよと言っている私は、死を認めることが嫌だったわけではない。お父さんは姿がなくなっただけで、いつでも私たち家族と共に生きているんだもの。息子は何の疑問も返さず「うん!」と明るくハモった。

自殺や事故、事件の多い暗い暗い世の中で、私たちは明るく、優しく愛に満ちた日々を過ごしている。強がりではないとわかってもらえるには時間がかかるかもしれないけれど……。

いよいよ私はパートに出た。夫の知人の紹介で映画関係の仕事に就いた。彼が愛した映画の資料に囲まれての仕事は、死しても私に与えてくれた彼のプレゼントと感じている。

沖縄

(2003・11月)
晩秋の日差しが心地よく“元気を出して”と慰められているような気がしてくる。やはり天気がよいと心も晴れる。南国の人々が明るいのは、日差しのせいだろうとつくづく思う。あのラテンの乗りも太陽からきてるのだろうなぁ……。

石川さゆりのヒット曲『津軽海峡冬景色』に、北へ帰る人はみんな無口で……という内容の歌詞がある。スキーに夢中だった頃、リフト待ちの長い列での人々は、皆黙りこくりじっと寒さに耐えていた。(あぁ〜このことなのかな〜)と勝手に思っていた。

私は神奈川県の川崎出身で、結婚して横浜に住んでいるので神奈川以外に住んだことはない。湘南・三浦など海があり、箱根・大山など山があり、横浜など街がある。海あり山ありネオンありの神奈川をとても気に入っているので出てみたいなんて一度も思ったことはないが、信州あたりのスキー場の民宿で住み込みでアルバイトがしたいな〜と思い、またニューヨークでバイトをしながらダンスのレッスンに通いたいと思っていた。夢は結局夢のまま……実現できなかった自分を今でも悔いている。

しかし夫は胸に抱いた夢を行動に移し、イスラエルへ行き、知り合った人々の家を訪ねたり、ヒッチハイクをしたりして40か国近く巡って帰国した。異国で彼が過ごしてる間、私は京都へひとり旅したくらい……。

以前、ニュースでサラリーマンが出張したい街のアンケート結果を報じていたが、福岡だったか札幌だったか? 私は夫がもし転勤するとしたら札幌がいいと常々思っていた。食べ物はおいしいしスキー場は混んでいないし〜。夫とも幾度かスキーに行ったのに、結婚して初めて「寒いのは大嫌い」だと聞かされた。「暑いのはいくら暑くてもいい」と言っていた。結婚当初のある日「また日本が嫌になっちゃった……」と落ち込み、「将来は海外で暮らしたい」とつぶやいた時(海外ってどこだろう? 英会話勉強しなくちゃ)とのんきに思ったものだ。

去年7 月、手術の前夜病室で「ゆくゆくは沖縄に住みたい」と言われた時、驚きもせず「そうしようね」とすぐに返した私は、(沖縄のバレエ教室を探さなくちゃ)とまたもやのんきだった。沖縄には夫の友人がいる。春<彼のことを語るには……ぜひ沖縄へめんそーれ>とメールを頂いた。夫と行かれなかった沖縄、家族で行かれなかった沖縄。近いうちに必ず息子と共に訪れ沖縄の海に遺灰を流そう。

サンタさん

(2003・12月)
12月が近づくと息子二人は「もうすぐクリスマスだ〜」とカレンダーを見ながら微笑んでいる。毎年枕もとに届けられるプレゼントが、サンタさんからだと信じているかどうかは定かでないが、楽しみにしていることは確かであり(父親との思い出もひっくるめてクリスマスが大好きなままでよかった〜)と安心する。しかし二人がにこやかにカレンダーを見つめるたび、私はプレッシャーを背負い込む(何が欲しいのだろう? 高価な物は買えないし……)。

去年は闘病中、それも助かる見込みもない中でのクリスマスだったが、それでも幸せだった。おいしそうにケーキを食べる息子の姿を、首が動かせず眺めることもできなくなっていたけれど、団欒は感じていたはず……だ。クリスマスは楽しみと切なさが重なり合うものになってしまった。

そんな中でチラホラとクリスマスカードが届くようになった。喪中はがきを出したので、淋しい淋しい年末&年始だ〜と暗い毎日だったが、「驚きました……来年はいいことがありますように〜」と私の友人。「お父さんは僕たちを見守っているよ」と心暖まるメッセージを贈ってくださった彼の友人のAさん(素敵な女性です)。毎年自作のリリカルなカレンダーを送ってくださっていたデザイナーのOさんは「今後も贈ります」と。イラストのファンだったのにもう途絶えるのだろうと、淋しい思いだっただけに感激したのだった。

そして24日、バレエの稽古への出かけに届いたのは、彼の大学時代の友人であり、闘病を支えてくれたS君から息子へのプレゼント〜と共にポロリと落ちたのはすぐに口紅とわかり(奥さんのMさんからだわ〜)、添えてあったカードをJRの中で開くと「新しい口紅をつけていいことがありますように〜」S君の文字。本人からだったと知り感激で涙がポロポロ流れてしまった。

その夜、ケーキやピザ(ピザは手作りだよん)にご満悦の息子の姿もあり、憂鬱だったクリスマスが楽しい気分になっていた。やがて、ピンポーンと(えっ? こんな時間誰?)訪問者は、彼が勤務していた会社のSさん。

「会社の仲間からお子さんに!」と渡された大きな包み。二人の喜びようはいうまでもなく、有志の方々15名の寄せ書きカードには、去年の同じ頃、病室に飾った寄せ書きカードにあったお名前が多く、彼さえも戻って来てくれたような感激だった。

“お父さんは今でもみんなの心の中にいます”
“お父さんのような愉快な人になってください”

二人はうんうんと聞いている。

“今年のサンタはお父さんの会社の仲間です”
に次男は、「そっか〜やっぱり。わかったぞ」とつぶやいた。それは(サンタはやっぱりお父さんだった)の言葉が隠されていたに違いない。バレてしまったなんて思わない。気づいていながらも毎年枕もとを楽しみにしている二人でよかった。楽しみを夢を与えられるよう育てられてよかった。

何よりも、君たちには約20人ものサンタさんがやって来てくれたのだから。

純愛ドラマ

(2004・1月)
今の若い人は“赤い糸の伝説”を知っているだろうか? 将来結ばれる人とは小指と小指が赤い糸で結ばれている……。出会いはメールなんて時代に笑われてしまうのだろうか? けれど、韓国ドラマ『冬のソナタ』の大ヒットなど世は純愛ブームである。誰もが運命的な出逢いを純愛を求めていることは確かのようだ。

『冬のソナタ』にはまった人は、こんなこと実際には起こらないと思いながら見ていた人が多いはずだ。しかし私は、最愛の人を亡くしたばかりだったのでかなり現実的だった。何しろもう二度と会わないだろうと思っていた人との再会は、生死にかかわる病室の中であったし、彼は手術で顔が変わっていた。命を取り留め、二度目のプロポーズの時は新しい名前になっていた(以前から話があった養子になったので)。始めの手術の後は、容姿ばかりか中身も変わっていた。困難を乗り越えるというのは、尖っていた人を丸くした。

私の両親は、彼が二度目の挨拶をしに来た時「同じ人?」と驚いた。この頃の私は“赤い糸”で結ばれていたと思っていたのだ。だから『冬のソナタ』の主人公の男性、チュウサン(事故前の名前)とミニヨン(事故による記憶喪失後の名前)の設定はなくもないと感じる。

心に残ったセリフがある。ヒロインのユジンの言葉「好きに理由なんかない、その人にすべてがスーッと吸い込まれていくあの感じ……」「今までとなりで息をしていた人が突然亡くなってしまう……その気持ちがわかりますか? 周りは何も変わっていないのに、その人だけがいない〜その気持ちがわかりますか?」まさに私の気持ちそのものだった。

香港・中国・台湾・シンガポール・マレーシア。彼と行ったアジア。今度は韓国に行こうと話していた。彼がイスラエルで半年を過ごした後の放浪の旅のしめくくりは、韓国だった。「日本に帰る〜」いよいよあの人が戻ってくる。ソウルからの電話は18年前のことである。

悲しみと微笑み

(2004・2月)
<彼との別れによる切ない瞬間>
息子が線香をあげる時。
スーパーのレジで奥さんが支払いをしている間に、かごを移し袋詰めをしているご主人を目にした時(日曜の午後のスーパーでの買い物恐怖症)。
日用品の買い物の時、紳士用靴下の特売を素通りしなければならないこと。
電球を換える時(買う時)。
病院にかかる折、健康保険証に彼の名前がないのを目にする時。
保護者欄に彼の名前を書けないこと。
テレビを見ていて笑った時(笑える自分が悲しい)。
悲しい事件があった時(心細くて怖くなる)。
ちっとも似てない人を遠目では似てると思った時。
元気そうでよかったと言われ、ちっとも元気じゃないと心の中でつぶやく時。
新作のおいしい料理ができた時。
など多数。

<頑張れると思う瞬間>
私の料理を、おいしそうに息子が食べている時。
彼が誉めてくれた料理を食べている時。
バレエの稽古で自分を取り戻す時。
友人が便り(メール)をくれた時。
友人とランチをしてる時。
気に入った洋服が値下がりして買えた時。
家族の愛を感じた時(親・義父母・姉・彼の兄・妹……多勢……)
彼から受けた愛を思い出す時。
など多数。

今は切ない瞬間のほうがはるかに多いけれど、少しづつ微笑むことが多くなっていくのかな? いや、やっぱりそうじゃないな……息子が思春期を迎えると、つくづくいてくれたならと思うのだろう。ずっと永遠、切なさと幸せは並行してときには微笑みが勝ち、時には切なさが上をいくのだろう。死別を乗り越えるなんてことは始めから無理なことだ。ただ、生きていく力をつけていくこと、生活に楽しみを増やすこと、自分の感情をコントロールできるようになっていくことなどが、少しづつ上手くなっていく。それが乗り越えるってことなのかな? なら、私は相当時間がかかりそうだ。

ビアマグ

(2004・2月)
2004年になってからは、一周忌法要に来てくださる方へのお返しの品を考える毎日が続いた。カオルくんにふさわしい物、偲んでもらえそうな物となると、なかなか“これだ!”と感じる物はない。2月始め、義妹のちづちゃんと、横浜高島屋の食器売り場を歩いていると、ドイツフェアと謳うコーナーに陶器のビアマグがあった。新婚旅行で訪れたミュンヘン市庁舎の建物の彫りの入ったマグが目に止まり「これだ! これしかない!」と胸がはずんだ。カオルくんの友人はビール好きが多く、これなら喜んでもらえるだろうと、店員の女性に数があるか尋ねてみた。

ちづちゃんにミュンヘンの思い出話をしながら、どうか揃いますようと祈り、回答を待った。数分後戻ってきた女性店員の答えは「あいにく数がありません」だった。他の蓋付きのマグも、みな4〜5個なのだそうだ。ひどく落胆した私に、ちづちゃんが「ナミちゃんに買ってあげる」とプレゼントしてくれた。

「主人の一周忌のお返しにしたかったんです」と、女性店員にミュンヘンが思い出の地だということを話すと「お若いのに。事故ですか?」「いえ、ガンです」私がそう言うと、涙ぐみながら「(揃わず)悪かったわね。がんばって」と一つの包みを渡してくれた。 あまりにふさわしい物にめぐり会ってしまったので、その後は何を見てもパッとせず、ドイツ大使館にビアマグを扱っている店を紹介してもらったが、ドイツでは陶器製のビアマグを生産しなくなっている(倒産もしている)そうだ。

ドイツにはカオルくんがイスラエル・キブツで過ごした時に仲良くなったマーチンが住んでいて、新婚旅行の時、マーチン夫妻にアウクスブルクとミュンヘンの街を案内してもらったのだ。電車の中で窓やあちこちいじるカオルくんに、マーチンは「like a kids」と言った。英語の苦手な私にも聞き取れて、ほんとカオルくんは子供っぽいよなぁ、と思ったものだ。

英文の書けない私は、いまだにマーチンにカオルくんの死を伝えることができないままだ。いつの日か再びドイツを訪ねたい。あの日、カオルくんとマーチンが再会し抱き合っていたアウクスブルクの駅でマーチンに会いたい。

偲ぶ会

(2004・3月)
2月末。カオルくんの一周忌を終えた。この1年は、いや闘病からの1年7か月は、長くも速くもない特異な時の流れの中での生活だった。

当たり前の話だが、彼の姿がなくなってしまえば、お見舞いに訪ねてきてくれる人などいない。つらい闘病を支えたのは、多くの方のお見舞いだった。彼を見守ってくれている方々とお会いできることが私の幸せだった。波が引くようにもう会うこともなくなってしまった。彼のお見舞いではなく、今度は私を見舞ってほしかった。そう思うほど、葬儀という人生最期の祭りの後は、さみしいものだった。

けれど、私の知らないところで、私や私たち親子を気にかけてくれ続けている方が、多くいることを知った。

働きに出るのだろうと、好条件の仕事を紹介してくださった彼の後輩の方。
夏休み。私たち親子を自宅に招いてくださった彼の大先輩。
夏休み。私たち親子をバーベキューに誘ってくれた彼の友人。
知らなかった、とお線香を送ってくださった後、お会いできた仕事仲間の方。
クリスマスは、多くの方からカードをいただいた。

そして春。「一周忌は都合で出席できずに悪かったね」と、カオルくんの映画仲間の方が<偲ぶ会>を開いてくださるとと知った。居酒屋でワイワイやるのかな? と軽い気持ちでいたのだが、開催日近くになって会場が銀座のホテルと知り、恐縮するとともに光栄に感じ胸が躍った。闘病前、会社でニコリと微笑む写真を大きく引き伸ばし遺影とし、ヨーロッパでヒッチハイクをしている写真と、風呂敷をマントにしてヒーロー気取りの、大学時代の写真も添えることにした。

会に集まってくださった方々は、彼のいいところも悪いところも知る、付き合いの深かった方たちだった。「仕事を離れ、こうして会うことがないから楽しいわ」と言ってくださった。彼の死によって、こうしてみんながひとつの場所に集い、他愛のない会話をし、懐かしみ、笑顔をもたらすものになったことは、不思議さと暖かさをもたらした。会では、亡くしてしまった悲しさよりも、出会えたことの喜びに満ちていた。彼は皆の心の中で生きつづけていることを感じ幸せだった。私のスピーチでは皆、泣いていたという。けれど、お開きの時にはまた笑顔に戻り、「また来年!」と手を振り、ほろ酔いかげんで散っていかれた。彼が最初に就職した会社がある銀座。映画会社が集まる銀座という街のにぎわいは、切なすぎるほどきらめいていた。酔っぱらったカオルくんにぱったり会えたらいいのに……と思わせた帰り道だった。

「まあきも行こうかな?」と言ったのに連れてきてあげられなくてゴメンネ。君のお父さんは自慢のお父さんだよ!

スナック菓子

(2004・6月)
梅雨入り間もなくの6月10日は、息子ふたりの遠足だった。前々日、しおりを見ながら持ち物を確認すると、長男まあきは城ヶ島(三浦)での班行動の時間が長くあることを知った。

生き物の観察と書いてあったので、「何を観察するの?」と尋ねると、顔色を変え、消しゴムで消し始め「磯遊びとスケッチになったんだ。みんなは生き物の観察したくないって……」と顔を歪ませた。城ヶ島は「鵜」が数多くやってくる場所だと、私も観光本で知っていた。まあきの鳥好きは家族はもちろん、学校でも鳥の知識では皆を黙らせるほどなのだ。

「今の季節は確かいないんじゃないの?」「いるよ」まあきがいると言うのならいるのだろう。「じゃあ今度、ようきと3人で三浦に行こうよ」と言っても、「そんな予定はあるの?」と涙をこらえながら投げやりの表情だ。「まあき、磯遊びしない! スケッチだってしたくない!」

今までだって、親の知らないところで、子供は子供なりにさまざまな問題を乗り越えてきたのだろう。ふだんは学校の話をしてくれないまあきが、珍しく胸の内を明かしたので、私もとても切なくなった。なんとか鵜を見せてやってあげられないものか、担任の先生にお願いしてしまいそうなバカ親な気分を払いのけた。

「班で決まったことは皆に合わせて行動しないといけないのよ。いくら嫌だからといって態度に出すものじゃないよ。磯遊びをしながらだって、生き物の観察はできると思うよ。今回は悔しくても、決まった中で自分で楽しく過ごすのよ……。明日、学校から戻ったらようきと遠足のお菓子を買いにいこうね」

翌日。ふたりの帰りを待った。3人で駅周辺の店を回った。MストアとTストアを行ったり来たり、いつもならなかなか決まらないまあきにしびれを切らすのだが、昨日の涙はなく、うきうきとお菓子を選ぶ姿にホッとしていた。「これ高いなー」と親の財布を気づかう発言に、いつもはケチな私も「せっかくの遠足じゃない。それにしな」と気前がいい。

やがて、小さなスナック菓子を手にして「辛いかなぁ?」と聞いてきた。ステーキ味と謳った小さな包みだった。子供向けなのだからと思い「辛くないんじゃない?」と返すと、「こういうのは辛いよって、お父さん言ってたもん!」

<えっ!?>一瞬、すべてが止まってしまった。お父さんが言ってた……? スーパーマーケットのお菓子コーナーの前で私は思わずまあきを抱きしめていた。「買ってみる」とレジに並んだ姿が愛しく映った。

家に戻り、お弁当の下ごしらえをしている様子をまあきが見ていた。「ねえ、いつ辛いお菓子のこと話したの?」と尋ねてみると、「小笠原に行った時だよ…… 確か船の中でお父さんが食べてた……」と答えが返ってきた。きっとまあきは食べてみたいと思ったのだろう。「そのこと忘れないでね」と言うと「うん」と台所を離れた。

遠足当日。「楽しくするのも、つまらなくするのも自分次第だよ。楽しく行ってきな!」と喝を入れて送り出した。パートの間じゅう、楽しくやってるか気になりっぱなしだった。梅雨の晴れ間に恵まれて、日焼けし帰宅したリュックの中は、お弁当もお菓子もきれいにたいらげていて嬉しくなった。

4年4か月

(2007・6月)
夫がこの世を去ってから4年が過ぎた。今年になってようやく睡眠薬に頼らず眠りにつけるようになった。
4年もかかった。
小3・小1だった息子は、中2・小6になった。
長男マアキは私の背を抜かし、次男ヨウキの体重は私に迫る勢いだ。
親はなくとも子は育つといわれるが、ひとり親でもなんとかやってこれた、というかやらなければならなかった。
子の成長とともに夫(父親)がいてくれたらなぁと、遺影をみつめる回数は何度も訪れる。毎日と言っていい・・。
私が感じる4年と、子供たちが感じる4年はどれくらいの違いがあるのだろう?
過ぎてしまった年数と、これからの未来の年数も感じ方が違ってくる。

喪失の悲しみは、時の流れなどで癒されなどしない。
少しずつ乗り越える力がすべが身についていくだけだ。

私と夫は出逢ってから結婚まで10年かかつた。
10年間の間で一番長く会わなかった歳月は4年4か月だ。
夫の最初の発病時のお見舞いという再会が、4年4か月だぶりだった。
そんなつきあいだったから、逝ってしまっても、いつかまたフラリと帰ってくるような気がしてならなかったし、いつかまた会えるそう思い込むようにして辛い時を過ごした。
だから私はこの世を去った2003年3月3日ではなく、4年4か月後の2007年7月3日が永遠の別れのような想いで暮らしてきた。
その2007年7月3日がもう間もなくやってきてしまう。
いつかまた会えると想うようにして生きてきたけど、やっぱりもう会えないのだと自分の心に言い聞かせる7月3日がやってくる。

その2日前、7月1日にジャズダンスの舞台に立つ。
天国から応援してくれるだろうか?
今でも恋しい一生恋しい天国の彼と、大好きなダンスでお別れだ。

バレエ

(2007・10月)
遠い記憶をたどると、私のバレエへのあこがれは幼稚園の頃からだ。
通っていた幼稚園では、お帰りの後にバレエ教室があった(幼稚園を稽古場として貸していたのだろう)。

その稽古風景を幾度か目にし、踊ってみたいなぁ〜と想ったのである。しかし、当時バレエの稽古はお金持ちの習い事というイメージがあり、とても親に習いたいなどとは言えなかったのだ。
私の初舞台は、年少さんの“かもめの水兵さん”だった。小さくて大人しく、遠足などの写真はいつも頼りな気な表情だったが、学芸会の写真はいきいきしているのだ。年長さんでは「かぐや姫」の“すずめ”の役だった。

背が高い女の子は天女の役で、とても羨ましかったが、庭に遊びに行く5番目のすずめを、いきいきと演じたのだ。小学生低学年の運動会のリズムダンスの時のこと、いつもは陰の薄い私だがダンスではがぜん張り切っていた。すると先生が「みんなも、なみえちゃんのように足を高く上げて!」と言ったのだ。みんなの前で褒められ、男子から「バレエ習ってるの?」と聞かれたことは、私の人生の中での大きな出来事だった。

(いつか働くようになったらバレエを習おう)幼心に誓ったのである。
時が経ち、あの日の誓い通りバレエを習った。

夫と会わなかった4年4か月の間が、最もダンスにのめりこんだ時だった。
だが、夫に舞台を観てもらえたのは結婚間近の2回ほどだけだ。
夫が最初に発病した時、4年4か月振りの病室での再会の想いをソロのダンスとして舞台で踊ったのに、当日彼は術後のリハビリだと、ベトナム旅行に行っていて観てもらえなかった。結局はバレエもとより、モチーフとなった自作の詩さえ見せないまま天国へ逝ってしまい、それが心残りのひとつなのだ。
育児と家事に追われ、舞台から遠ざかってしまったが、次男が小学校へ入学したらバレエ復活と心に決めていた。

実際、夫の脳腫瘍再発前、私は体験レッスンに行き始めていたのである。
夫の死後、昔のバレエ仲間から発表会の誘いをいただき、13年振りに舞台に立った。
私は始終、心の中の夫に語りかけ、(薫くん観てる?)の想いで踊っていた。
夫に観てもらいたかったという想いは、息子ふたりに繋がれた。私の舞台化粧に驚いて、息子たちの踊りに対する感想などはなかったが、自宅に戻ってからの長男マアキの「今度はいつ?」の一言が、私を励まし、幸せにしてくれた。

年金手帳

(2007・11月)
臨終の瞬間も葬儀もほとんど涙が出なかった。
あまりにもドラマチックで、自分の身の周りの出来事ではないような、妙な不思議な感情が大きかったからかもしれない。4次元の世界に置かれたような、特異な空間にいた感情からか……?

しかし、夫の死と向き合った中で自然と流れた忘れられない涙がある。
社会保険事務所で遺族年金の手続きをした時だ。
喪失の悲しみの中での相続や社会保険の手続きほど苦しく辛いものはない。
戸籍を住民票を取るたび、夫の名前が×で消されているのを目にしなければならず、その度ごとに胸が張り裂けそうな想いになるのだ。
そんな重い気持ちの中で、番号札を持ち順番を待ち書類を出した。
係りの女性(40代後半〜50代前半か?)は淡々と処理をする。
( 若いのに……気の毒に……なんて思わないのかな? いちいち感情など湧かないのかな?)私はぼんやりと女性がこなす処理を眺めていた。

するとやがて女性が口を開いた。
「会社はずっと保険料を掛けてくれていたのね……」
「あっはい。……N社は本当によくしてくれました……」

金額や振り込みなどの説明の後、オレンジ色の夫の年金手帳を手にし
「これは回収となります」と告げられた。
私は一瞬意味が判らなかった。結婚後ずっとずっと私の手帳と共に2冊一緒にぴったりくっついて保管していた年金手帳。再び私の元に戻されると思っていたからだ。

「えっ? そうなんですか?……そうなんですね……」
意味が判った途端、涙が流れた。自分でも驚くほどの切ない涙だった。
女性は「足りない分はパートにでも出て……あなたなら大丈夫よ……」
「あなたなら」のその言葉は、なおさら私の涙を引き起こした。

臨終も葬儀も流れなかった涙。感じなかった別れ。
年金手帳との別れは、夫との別れを現実のものとしたのである。