Vol.31 「歴史息づくお城のプリンセス」その2〜歴史を見続けてきたお城

古文書の中のお城(写真提供・アルトシュテッテン城)
ウィーン郊外、白ワインとなるぶどう畑の広がる美しい景観のヴァッハウ渓谷をドナウ川に沿っていくと、バロックの宝石と言われるメルク修道院があります。さらにその先、ドナウ川を渡ると木々の中に、アルトシュテッテン城はたたずんでいます。そのお城を守る、プリンセスを訪ねました。

まずはこのお城の歴史を、ご紹介いたしましょう。

13世紀にはすでに、このお城はオーストリアの古文書に登場しています。そして17世紀以降、ハプスブルグ皇帝やその一族によって所有されてきました。1889年に、当時の皇帝の甥であったフランツ・フェルディナンド皇太子が、このお城を継ぐことになります。

ハプスブルグ家皇位継承者となったフェルディナンド大公は、皇室の反対を押し切り、チェコ出身の伯爵令嬢をお妃としたため、いわゆる貴賎結婚とされてしまいます。そして妻や子どもたちはハプスブルグ家代々の霊廟であるウィーンのカプツィーナー教会皇帝納骨所には入れないことから、このアルトシュテッテン城の一角に、家族のための霊廟場所を作ったのでした。

フランツ・フェルディナンド夫妻のお墓
1914年、第一次大戦の引き金となった、あまりにも有名なサラエボ事件が起き、フェルディナンド大公夫妻は暗殺者の犠牲となります。大公の長男が城を継ぐことになりますが、その後ナチスによるオーストリア併合により、息子たちはドイツの収容所に送られ城は没収されました。その後1949年に城がオーストリア共和国へと返還されると、以降、一族が守ってきました。なお、故フェルディナンド大公以降、家族はホーヘンベルグ(最後までハプスブルグ一族に入れなかった、故大公の妻に与えられた名)を名乗っています。

1982年には、故大公の常設博物館がお城の中に開設され、幸せだった大公家族や、当時のヨーロッパ各国の権力者たちなどと大公が一緒の貴重な写真が一般公開されています。また、いずれ皇帝の座を継ぐはずであった大公が、世界を旅して回った際の、当時としては非常に珍しい各国からのお土産の品々(日本へも寄港され、長崎から京都、東京など数週間、滞在されています)、そして大公の、遂には継承を実現することのなかった帝国の理想の世界地図なども展示されています。