Vol.02 ウィンナーワルツ、そして舞踏会の歴史をお勉強しましょう

華やかさと格調を持つウィーンの舞踏会。それはいつ頃に始まったものなのでしょうか? 

オーストリアで舞踏曲が作曲されたのは13世紀前半。三拍子のワルツは、17世紀に地方の市民階級や農村で生まれたカントリーフォークダンスがその源で、その後クルクル回る動きが“ワルツ風”と呼ばれるようになり、やがて三拍子の楽曲そのものを指すようになりました。

中世の貴族社会では、舞踏会は年頃の子供をデビューさせ、他の貴族たちに紹介する大事な社交場でした。女帝マリア・テレジアの時代にはたいへん盛んになり、彼女も、そしてモーツァルトもかなり舞踏会を楽しんだ一人であったようです。やがてウィーン市内では多くの舞踏場が作られ、庶民階級によって宮廷社交界の世界を真似た舞踏会が続々と増えていきます。

「ワルツは踊る、されど会議は進まず」と言われたウィーン会議(1814〜15年)当時の人びとのダンス熱狂ぶりは、たいへんなものでした。例えば、全人口20万人の4分の1がダンスホールで踊れたとか、ある年のカーニバル時期には市内で722回もの舞踏会が開かれ、オーケストラは二組に分かれて会場に行った……といった、当時の記録からもわかります。そこは社交場であると共に、人々にとっておとぎ話の世界でもあったといわれています。

1830年代のはじめ、ヨーゼフ・ランナーとヨハン・シュトラウスによって、テンポの速いワルツ曲が作られ、ワルツの新しい時代の幕開けとなりました。後のワルツ王、ヨハン・シュトラウスIIのワルツに、聴衆はたちまち夢中になり、やがて階級や年齢層を超えて広い人気を獲得するようになりました。もっぱら古典舞踊が中心であった貴族たちも、ワルツを楽しむようになっていきます。

オペラ座舞踏会でのデビュタントの入場写真と、王冠。
それでも一時期、ワルツは「男女があまりにも接近し過ぎる」「不道徳だ」として禁止されたことがありました。またウィーンにヴィーダーマイヤー(※)という新しい文化が生まれ、ダンス熱が徐々に冷めるに伴い、舞踏会もあまり開かれなくなっていきました。

ただし、当時宮廷でのみで開かれていた舞踏会には、高位貴族や外国の皇族など、宮廷舞踏会に招待されるにふさわしいかどうかを厳しく検討された後、ごく限られた者のみが招待状を受けることができました。記録によると、1895年の宮廷舞踏会の最初に、外国の大使や高位貴族たちの前で、社交界にデビューする宮廷貴族の若い男女が皇后に紹介されるのが、ウィーン宮廷の伝統でした。宮廷舞踏会に参加することは、多くの人々にとって大変に名誉のある、生涯の夢であったのです。

ちなみに国立オペラ座舞踏会は、1877年に始まっています。

参考文献:「ウィンナ・ワルツ」(加藤雅彦 著)

ヴィーダーマイヤー=Biedermeierは、1850年代にL=アイヒロートとA=クスマウルが発表した詩作に由来し、19世紀前半、ドイツ・オーストリアで行われた家具・室内装飾の様式を表す。簡素・実用性が特徴で、広義には、同時代のライフスタイルや、美術一般の様式をさす。