第25回
私は人に恵まれている。

約束の一週間後、弁護士の堀田先生の事務所を訪れた私は、改めて実感していた。堀田先生は一週間という短い時間にすべての債権者に連絡し、話を進め、扶助協会へ行く予約も、すでに入れてくれていた。

「8月中にはすべて片付くようにしましょう。そうすれば年内には結論が出せますから」
自分で自己破産の手続きをした場合、めどが立つのは来年の春頃と思っていたし、弁護士さんに頼んでも、早くて年明けくらいだろうと考えていた私は、その言葉を聞いて驚いた。
「こういう問題をいつまでも抱えていては、平野さんも仕事に集中できないでしょう。出来るだけ早く片付けましょうね」
先生はそうも言ってくれた。先生の暖かい言葉に、それまで頑なに「弁護士になんて絶対に頼みたくない」と思っていた気持ちが、段々と薄らいでいく気がした。

ただ私には、気がかりな点がひとつあった。それは扶助協会から援助が出なかった場合、すでに私の手続きに着手してくれている堀田先生への支払いを、どのようにしたらいいのか、という点だ。先生は私が裁判所に提出した書類にはすべて目を通しており、私の生活状況を把握した上で、
「扶助協会から扶助は受けられると思いますよ」
と請合ってくれてはいたが、万が一ということもある。私が正直にその不安を口にすると、先生は
「もし扶助が下りなくても、平野さんが負担になるような金額はいただきません。例えば5万円を分割とか、そのような形にしようと思います」
と言った。

「弁護士に支払うくらいなら自分で手続きをする」
そう思っていた私は、例え5万円くらいでも払うことになるのは、自分の意志を曲げたことになるような気がして、少し抵抗を覚えた。けれど東京地方裁判所での煩雑な手続きをやらなくてもよくなり、債権者からの連絡がなくなった精神的な負担からの開放などを思うと、5万円は安いような気もした。

「扶助協会」へ行く件の打ち合わせが終わると、いよいよ本題の「自己破産」の手続きの話になった。書類を書く上で私が最も悩み、地裁で付箋をつけられたパソコンのことや海外旅行のことなどについては、堀田先生の判断で削除することになった。そういった細かい点については、すべて先生が手直しをしてくれるのだが、
「ほとんど平野さんが書いている通りで間違いないですから、僕がやることは少ないですよ。本当によく自分でここまでやりましたね」
と、ねぎらいの言葉をかけてくれた。何度裁判所に足を運んでも、「自分でやるのは無理」「弁護士に頼みなさい」と言われ続けていたので、私は今までの苦労が初めて報われたような気がした。

「陳述書についても、基本的には平野さんが書いたものを元に作りますが、一応、借金を作った流れなどを話してもらえますか」
堀田先生に促され、私は谷井企画を辞めたところから話し始めた。「陳述書」は「やむを得ず借金を重ねてきてしまい、ギリギリまで返済する努力をしてきたが、現在の生活状況では、とても借金を返していくことができない。多方面にご迷惑をかけることは重々承知しているが、ここで借金を整理し、二度と借金などしないように新たな生活設計を立て、人生をやり直したい」という思いを裁判所に分かってもらい、破産宣告を出してもらうために最も重要な部分である。私は提出書類すべてに対し、嘘は書かないと決めていたが、敢えて書かなかったことや、説明しづらいために省いてしまった部分がある。堀田先生に話をする上で、私は無駄になるかもしれなくても、すべて正直に話そうと心に決めた。

借金を重ねてきたことは、ある意味自分の恥部に違いなく、それをまだ二度しか会ったことのない人に話すのには、自分の中の何かを捨てる行為に近かったけれど、それは私が一歩前進するために、乗り越えなくてはならないことのひとつだと思った。

高校を卒業して最初に就職した会社を、1年にも満たないうちに退職してしまったのは何故ですか?
最初に聞かれたのはその部分だった。私は正直に「付き合っていた人が亡くなって、精神的に不安定になり、辞めました」と話した。それ以後、バイトを転々としたこと、フリーライターとして仕事を始めたきっかけ、知り合いのスナックでバイトを始め、芝居の脚本を書くようになり、自らプロデュースを手がけたことなどを時系列に説明した。
「スナックのバイトに行ったり行かなかったりなのは何故ですか」
「フリーライターの仕事がない頃は何をしていましたか」
「演劇のプロデュースをしたのはどうしてですか」
「それを辞めたのは何故ですか」
堀田先生は私の話の合間に、細かい質問を入れてくる。またそれぞれの年代や、その頃の収入、借金額なども一緒に説明しなければならず、途中で忘れていたことに気が付いては説明し直し、私は次第にさまざまなことを思い出した。自分で「陳述書」を書いていた時も、それなりに時間軸に沿ってバイトや仕事のことなどを書いたつもりでいたが、やはりそれは通りいっぺんでしかなく、「スナックに行かなくなった理由」や「演劇のプロデュースを辞めた理由」などはいちいち書く必要もないと、深く考えずに書き飛ばしてしまっていた。

スナックの仕事は最初、本当に自分が暇な時だけ、月に数回働く程度だった。昼間どこかで働くようになれば行かなくなり、辞めたらまた行く。その程度でしかなかった。しかしフリーライターになり、本職の仕事ではとても食べていけなくなると、生活費のほとんどをスナックのバイト料で賄うようになった。その頃に、本当に生活費すべてをスナックのバイト代で出せるくらい真面目に働いていれば、借金を作ることはなかったかもしれない。けれど友人に「はるかは今、何やっているの」と問われて、口では「フリーライター」と答えながらも、現実にはスナックからもらえる収入のほうが多いということが、私は情けなくて仕方がなかった。

水商売をやっていることがイヤだったわけではない。
自分には他にやりたいことがあり、ライターとして一本立ちしたいと本当に望んでいた。目指す生き方と現実のギャップに耐えられなかったのだ。そういう気持ちが強くなると、私はスナックに行かなくなった。表向きの理由は「本職が忙しいから」と言っていたが、実際は精神的に「望んでいることと違う自分」に耐えられなくなると行かなくなっていたのだ。それは、他に収入の道もないのに、「イヤだから行かない」と言って、自分にとって最も都合よく働かせてくれる場所でさえ、働かなかったということだ。

芝居のことにしても同じだ。
プロデュースをしてもお金にはならず、かえって借金が増えたのは事実だが、辞めたのは、それが辛かったからではない。

もともと他人と協力して何かをやるということが出来ず、人と一緒にいることが長時間に亘ると苦痛になる。自分の精神状態や、人と接しているときのテンションを上手に保つことが出来なくて、感情の起伏が激しくなり、一人になった時に一気に疲れが出てしまう。大人になって多少コントロールできるようになったものの、そんな気性が災いして、のめりこんでやった分、「二度とやりたくない」と思うくらいに演劇に対する情熱が一気に冷めてしまったのだ。バイトも芝居を書くことも、村田とやっていた仕事も長続きしなかった理由には、私なりに、もちろん言い分はある。けれど突き詰めていけばすべては自分の性格に起因しているのだと、冷静に分析すれば見えてくる。

堀田先生は私の人生相談を受けてくれているわけではないので、自分の性格についてまでは話さなかったものの、何かを始めては長続きせずに辞めたということを話していくうち、私は段々、自分のあまりの愚かさに恥ずかしくなってきた。更に先生は、これほどまでに借金が重なってもなお、どこかで働こうとしなかったのか、という点について尋ねてきた。

それはたくさんの友人や知人、親にも言われてきたことだった。
「どこかまともなところに就職して、2〜3年で借金を返したらどうだ」
その言葉を、何度言われただろうか。

「小説を書きたい」「売れっ子ライターになりたい」などという夢のような事を言ったことはないが、「ものを書いていきたい」ということすら、他人からみれば「そんな夢みたいなこと言っていないで、早く諦めて堅実に働きなさい」ということらしい。けれど私は、いくつかバイトをした経験で、「ものを書くことと関係のない仕事はしたくない」と、ハッキリ思うようになっていた。別にそれは、自分の好きなことを書くのではなくてもいい。自分が書きたいものを書くということは、仕事にならなくてもやり続けるだろう。でもせめて、自分の好きな世界の近くにずっといたい。私はそう考えていた。

それは、恋人の達彦が亡くなったときに、生きていくことさえ投げ出そうとした私を唯一救ってくれたことだからだ。
もしもあの時、「書く」という私にとっての救いがなかったら、どうなっていたか分からない。
何かを書き続けていくこと、それこそが私が「生きていくための意味」なのだ。
そしてそれが、いつしか私を助けてくれる人への「応え」となり、私を遺して逝ってしまった人への「答え」になるはずだと、思うようになった。それを途中で辞めることは出来なかったのだ。

その事を、他人に分かってもらうのが難しいこと、一生懸命働かないことへの言い訳になってしまうことも充分分かっていたが、それでもライターで食べていきたい、という気持ちを捨てることは出来なかった。

堀田先生は、「ものを書いていくという夢のために、その道が開けると信じて芝居を書いた。更に収入に繋げるためにプロデュースをやり、村田という人とさまざまな仕事をやろうとした」というふうに、すべてにおいて善意に解釈してくれたが、そう言ってしまうには私は自分の弱さをよく分かっていた。

地方裁判所からもらった書類を書く時、自分の人生を振り返り、過ぎてきた時間の中にある自らの愚かさや甘え、精神的な弱さと向かい合った。それはとても苦痛で、何度自己嫌悪に襲われたか知れない。けれどこうして、第三者に理解してもらうために改めて話すと、愚かさも甘えも弱さも、自分ひとりでやっている時の何倍にもなって私自身を襲い、恥ずかしさと情けなさで、身も凍るような気持ちになった。

しかし堀田先生が親身に、そして決して私に対して追い詰めるような、叱責するような発言をせず、丁寧に話を聞いてくれたことが救いになった。堀田先生は、私が「エッセイ集を出した」と言うと、「何というタイトルですか? 明日買って読んでみます」とまで言ってくれたのだ。

裁判所の受付の女性が言っていた言葉は嘘ではなかった。
「運がよければ、親身になってくれる弁護士と出会える」
というあの言葉。その話を堀田先生にすると、
「そんなことはないですよ」
と、堀田先生は苦笑をもらした。
「弁護士協会(※)に登録しているのは若い人がほとんどで、皆、熱意を持ってやっていますよ」
と先生は言う。

もしかしたらそうなのかもしれない。けれど中には、そうでない人もいるかもしれない。
弁護士協会に行った日、私は予約した時間より10分早く行った。そして東京地方裁判所にすでに書類を出していたため、弁護士協会で書かされる書類を、先に来ていた人より早く提出することができた。そのため、私は午後の面会で「1番」ということになり、その日「1番」の部屋を担当していた堀田先生に巡り会うことができた。もしも最初から弁護士を頼むつもりで弁護士協会に行っていたら、堀田先生には会えなかったかもしれないと思うと、自分でやってみようと努力したことも報われる気がした。

長い時間をかけて私の話を聞いた先生は、最後に「自己破産の手続きは私がやりますので、もうほとんど平野さんがやることはありませんが、今後について、約束していただきたいことがあります」
と言った。
「ひとつはもう二度と借金をしないこと。カードなどは使えなくなりますが、知人や友人にも借りないこと。そしてもうひとつは、今後の生活の中で、少しづつでもいいから貯金をすること。例え500円でもいいから、毎月必ず貯金をしてください」

私は先生の言うことを一言一言、心に刻み付けた。借金はもちろん二度としない。それは当然のことだが、貯金もきちんとするようにしよう。そう思って、私は先生の目を見てしっかり「はい」と返事をした。そんな私を見て先生は、ひとつ頷くと、
「そして最後に、これからも良いものをたくさん書いてくださいね」
その言葉を聞いて、私は思わず泣きそうになった。
この先生になら、お金を払ってもいい。この先生になら、万が一扶助が下りなくてもすべてを任せられる。

やはり私は、人に恵まれている。運がよかったのだ。

※弁護士会法律相談センター

通称「弁護士協会」、正式には「弁護士会法律相談センター」と言い、弁護士法に基づいて東京に設置されている三つの弁護士会(東京弁護士会・第一東京弁護士会・第二東京弁護士会)と、財団法人法律扶助協会東京都支部が運営する法律相談所のこと。さまざまな弁護士事務所に勤めている弁護士が、弁護士会に登録し、当番の日に持ち回りで相談を担当する。東京にはクレジット・サラ金問題専門の相談センターが、四谷と神田に設けられている。