第18回
脚本を書くことで自分の未来が広がる。
そう信じて、芝居の世界に飛び込み、依頼を受けたものだけでなく、村山という女性と組んで自らプロデュース公演まで手がけた。

その結果、村山と二人で稼いだお金をすべてつぎ込んでも足りないくらいの借金を背負い込み、その返済のために新たに消費者金融からの借金を持ってしまった。村山とは、さまざまなところへ営業に行き、朝から晩までほぼ毎日、打ち合わせや作業をして、相当な仕事量をこなしていた。

けれどそうやって働いていたにもかかわらず、お金はまったく入ってこないばかりか、借金まで抱えることになってしまい、さすがに私も、村山との仕事だけに時間を使うわけにはいかなくなった。

村山は親元に住んでおり、生活の心配がないから出来るのだ。
私は次第にそう思うようになり、村山のほうでも、私がバイトをしている時間にひとりで営業することに対し不満を言うようになった。1週間のほとんどの時間をふたりで過ごし、かなりの仕事をこなしていたにもかかわらず、それがまったくお互いの収入に繋がらないことが、次第に二人の関係性にまで影響を及ぼしていた。

そして何度目かのプロデュース公演で、出演者たちとのトラブルが立て続けに起こり、私も村山も「次の公演」のことなど考える気にもならなくなった。最後の公演も結果的には赤字で、私は少しずつ返していた消費者金融やクレジット系カード会社から限度額一杯まで再び借り出し、その穴を埋めた。

そしてどちらからということもなく、私と村山コンビは自然消滅してしまった。

3年近く続けたそんな生活の後に残ったのは、以前の倍近くに増えた借金と、「人と一緒に仕事をするのは自分には向かない」という思いだけだった。

達彦が亡くなって4年目に、達彦の会社の社長の訃報を聞き、しばらくは何も手につかないくらいに落ち込んだ。そして新しく知り合った役者たちとの付き合いに、逃げるようにのめりこんだ。

その付き合いを続けていくうち、「脚本」という新しい表現方法を得て、私は再び「もの書き」としての夢を取り戻した。彼らと過ごした数年間、私はずっとテンションが高いままだったように思う。芝居について、自分を表現するということについて、何人もの人と議論し、語り合う。それはとても実りのあることのように思えた。

けれど村山とのビジネスが失敗し、最後の公演で役者とのトラブルにも見舞われた私は、ある日、自分が見ていた夢から覚めてしまった。イヤなことから逃げ出して、その上に成り立った人間関係すべてが、幻だったように思えて、私はそこで知り合った人たちに会うことすらしなくなった。

子供のころからあまり協調性があるほうではなかったが、芝居のような大勢でひとつのものを作る場合、協調性は必要不可欠である。多少大人になり、表面的にある程度人に合わせられるようになった分、精神的な負担が大きくなり、そのツケが一度に現れたようだった。

私のことを実の娘のように可愛がってくれていた達彦の父親が亡くなったという連絡を受けたのは、大勢の人たちとの人間関係に疲れ始め、惰性で村山とのビジネスを続けていたころだった。

その日は、村山とやっている仕事のひとつである舞台製作を手がけた劇団の、千秋楽だったため、私は朝早くから劇場に入っていた。受付の支度などをしていた時、達彦の妹から携帯に電話が入り、父親が朝方亡くなったことを聞いた。ショックは受けたが、現実感がなく、お通夜は3日後だというので、私はそのまま仕事を続けた。

受付の合間に連絡しなくてはならない友人たちに電話をかける。
「達彦のお父さんが亡くなった」
と口にするたび、少しずつ現実感が増し、悲しみが胸の底から押し寄せるのだが、その場所に事情を知っている人はおらず、私は泣くことも出来ないまま、決してお金にもならない仕事を続けていた。

「こんな時に、私は何をしているのだろう」
黙々とやるべきことをこなしながら、私はそう考えていた。

達彦の父親は、達彦が亡くなってから、私のことを本当の娘のように可愛がり、どこかへ一緒に飲みに行くと、誰彼なく、
「俺の一番可愛い娘」
と言って、私のことを紹介した。

「俺ははるかちゃんが可愛くて仕方ないんだ。はるかちゃんには申し訳ないことをしたと思っている。だから絶対に、誰よりも幸せになってもらいたい」
ある時、泥酔した達彦の父が言った言葉が、蘇る。

私はその言葉を聞いたとき、
「どんな形でも、私は絶対に絵に描いたような幸せを、お父さんに見せてあげよう。そして安心させてあげよう」
そう思った。けれどそれも叶えられないまま、亡くなってしまった。

両親が離婚して、父親がいない私にとって、本当の父とも慕う人だった。そんな大切な人が亡くなったというのに、私は何をしているのだろうか。達彦の父は半年前から入院していたのに、一度お見舞いに行っただけで、「たいしたことない」という言葉を鵜呑みにして、顔も見せに行かなかった。

お見舞いに行けないくらい忙しかったのも、何の生産性もない村山との仕事や芝居や、その仲間たちとの付き合いに時間を費やしたからだと思うと、悔やんでも悔やみきれない思いで一杯になった。

連絡を受けた日に手伝っていた芝居を最後に、私は芝居関係者の集まりにほとんど顔を出さなくなった。そしてライターという仕事柄、人に会いたくなければそのようにスケジュールを調整すればよいので、次第に誰とも会わなくなり、家からも出ない生活をするようになっていった。