第19回
私が最後に書いた芝居の脚本は、一緒に仕事をしていた村山とのプロデュース公演ではなく、別の劇団からの依頼で仕上げたものだった。その芝居の稽古中に、知人に紹介された出版社から「エッセイ集を出してみないか」という話をいただいた。

依頼を受けて書いたというのに、一切ギャラはもらえず、しかも演出家がどんどん勝手に台詞を変えてしまい、稽古場に行くたびにまるで喧嘩のように怒鳴り合う。

「一銭の得にもならないのに、なぜ芝居を書くのか」
とよく聞かれたが、それは自分の思いを表現したいからだ。もしも仕事で、きちんとお金が支払われるなら、多少不本意でも、クライアントの意向に合わせて書き直すことは当然のことである。けれど、自分の思いをそのまま表現するために引き受けた芝居の脚本が、演出家の意向で勝手に変更され、私の作品として発表されてしまうことは、私にとってまったく意味のないことになってしまう。

そういうやり取りに疲れ果てていた私は、「エッセイ集の出版」という仕事に、全精力を傾けることにした。もの書きを目指す者にとって、「自分の名前のついた本を出す」というのは目標のひとつでもあり、しかもエッセイならば芝居と違って私の考えや意見をそのまま書くことができる。「脚本」という表現方法に行き詰っていた私には、まさに新しい世界に向かう切符のように思えた。

「本を出してもらえることになった」
私はそのことを、親や友人はもちろん、澤田さんをはじめとするスナックのお客さんたちにもすぐに伝えた。特に澤田さんたちには、「やっと今までの恩にささやかながら応えられるときがきた」という思いがあり、ひとりずつ電話で報告をした。実際に本が出版されると、澤田さんたちが出版記念パーティを開いてくれ、私はそのとき改めて、この人たちに支えられてここまでこられたのだということを実感した。これからこうやって、少しずつでも恩返しをしていきたい。私はそう思っていた。

「陳述書」は裁判所からもらった用紙の他に、A4の紙2枚にわたって書き上げた。自分のプロフィールと借用書の時期を見比べて、どのような仕事をしていた頃に、どのくらいの収入があり、どのくらい生活費の不足があって、どこからいくら借りたのか、といったことを時系列に書き綴った。そういった作業をしている間に、さまざまなことを思い出し、自分の愚かさや甘えを改めて認識させられる。普段、気持ちの問題に関しては繰り返し自問自答し、考えすぎるくらい考えているが、その分現実の問題は先送りにし、真正面から見つめたことがあまりなかった。

「陳述書」を書き上げることで、私は始めて自分が抱えている現実の問題に取り組み、問題がはっきりしたことで、自分の心の在りようもよく見えるようになった。目の前の問題を自分できちんと片付けられるようにならなければ、私は変わらない。変わることができなければ、また同じことを繰り返し、そのことに自分自身がうんざりして、再び取り返しのつかない後悔をするかもしれない。「陳述書」を書き上げたことで、私の中で何かが少しだけ変わった。

「自己破産の申立書」「免責申立書」のふたつを書き上げ、必要書類をすべて用意した私は、再び東京地方裁判所へ出向いた。書類を提出する先は、前回訪れたときに書類をなかなか渡してくれなかった人がいた場所だ。中に入っていくと、そのときと同じ人が対応に現れた。私の顔を覚えていたかどうかは分からないが、私が何も言わないうちに、「自己破産ですね」と言って書類を受け取り、別の中年の女性に書類を渡した。

その女性は私を呼ぶと、必要書類がすべて揃っているかを確認し、いくつか書類に関する質問をした後、
「何故、弁護士に頼まないのですか?」
と言った。私は前回と同様、「お金がないからです」と答えた。すると中年の女性は「破産管財人が入った場合」について、前回の男性同様の説明をした。それらについてはすでに説明を受け、理解していること、それでも弁護士に頼む意思はないということを話すと、ようやく手続きをしてくれることになった。

手続きが終わるまで、別のところにある待合室で待たされる。そこに座っていると、順番の来た人から呼ばれるのだが、アナウンスされるのはすべて弁護士なので「○○先生」という名前であり、個人の名前が呼ばれることはなかった。私より後に待合室に来た何人もの「○○先生」が、入っきて10分もしないうちに呼ばれていく。実際に裁判所まで来て、ほとんどの人が弁護士に頼んでいるということ、弁護士のほうが手続きが早いという現状を目の当たりにして、私は再び不安になった。

40分ほど経ち、私の名前が呼ばれた。不安を抱えたまま、先ほどの場所に入っていくと、
「この書類は受け取れません」
担当してくれた中年の女性はそう言い、すべての書類を返されてしまった。