第16回
昼夜働いて貯めていたお金はどこへ消えてしまったのだろうか。

全ての貯金を使い果たし、定期も保険も解約して、数か月後には逆に数十万円の借金を抱えるに至った。私はその当時の事を思い出していた。

フリーライターになる少し前のことだ。
私は恋人の達彦のことを書き残そうと、12月頃から私小説ともいえるものを書いていた。2月の命日までに書き上げたいと思い、事故から亡くなるまでの4日間をベースに、付き合っていた間の思い出を挿入し、書き始めて2か月で400字詰め原稿用紙300枚近くまで書いていた。

もともと命日の近くになると精神状態が不安定になる上に、昼も夜もバイトをしながら、暇さえあれば達彦のことを思い出し、それを言葉にして原稿用紙のマス目を埋めていく。達彦にとって人生の最後になってしまった数年の時間を、ほとんど私に費やしたことは、彼にとって幸せだったのだろうか。書いているうちに悲しみが込みあがり、喪失感で胸が一杯になった。

そんな状態で、達彦が亡くなって4年目の命日を迎えた。命日には毎年、達彦の家へ行き、その後友人や達彦の会社の人たちで飲むのが定例になっていた。達彦は鳶職人で、現場から落ちて亡くなった。同じ現場を担当していた親方や先輩たちはもちろん、達彦とはまったく面識もなかった会社の社長が、いつも私たちに付き合ってくれていた。

けれどその年、達彦の実家へ行った私は、その社長が亡くなったことを聞いた。三回忌の後はほとんど会うことがなかったが、訃報を聞いた前の年にふと社長のことを思い出し、久し振りに皆で飲んだ。その時、社長は「今度ゆっくりはるかちゃんと話がしたい」と言った。達彦が亡くなったばかりの頃、いつも朝まで飲み明かしていた私たちに、「今日は朝まで飲もう」と社長は言ったのだが、私たちは皆、明日があるからと言って早々と帰ってしまった。社長が亡くなったのはその1か月後だという。

社長をタクシーに乗せたとき、何かを言いたそうにしていた顔が忘れられず、近いうちに連絡しようと思っていた。けれど私が「連絡しよう」と思っていた頃、すでに社長は亡くなっていたのだ。達彦の死に必要以上の責任を感じ、どんな時でも私たちに付き合い続けてくれた社長が亡くなった。その事実は、すでに精神状態がおかしくなり始めていた私を、完全に打ちのめした。

達彦が亡くなってから数か月間、時々は働いていたものの、私はほとんどお酒に溺れていた。毎晩毎晩お酒を飲み、ただひたすら泣いて過ごしていた。私がそんな生活から立ち上がったのは、「いつか達彦のことを書きたい」と思ったからだ。だからそのために、ライターになった。その夢のためには、人付き合いや遊びに費やす時間はもったいないと思っていた。社長と飲みに行ったときも、私は「朝まで飲むなんて、くだらないことはできない」と思った。社長が私に話があるなら、それはまた次の機会に聞けばいいと思った。

けれど、次の機会はもうこないのだ。

取り返しのつかないことがこの世の中にはあるのだということを、私は充分に知っていたはずなのに、愚かにも再び同じ過ちを繰り返してしまった。達彦との思い出を大切にしながら生きていきたいと思っていたのに、達彦のことが縁で知り合った人に不義理をしたまま、二度と会えなくなってしまった。自分の生き方は間違っていたのだろうか。そう思うとたまらなくなり、達彦の死から立ち直ってから初めて、私は再び生きていく気力を失ってしまった。

「陳述書」を書きながら、私はそんなことを思い出していた。社長が亡くなった事を知った日から間もなく、私は昼間バイトで行っていた会社を退社することになった。当時私が担当していた小冊子の仕事は、フリーライターとして継続することになり、ある程度の収入は確約されていた。また、谷井企画からも、それまでより大きな仕事を任せてもらえることになり、スナックのバイトも続けていたため、フリーになって急に生活に困るということはなかった。

けれど一度不安定になってしまった精神状態はなかなか元に戻らず、春になる頃には谷井企画から受注していた仕事が終わり、小冊子の編集以外に仕事はなかったが、私は新しい仕事の営業もせず、スナックのバイトも今までほど行かなくなり、貯金はどんどん減っていた。

そんな頃、私は小劇場の役者さんたちと知り合い、少しずつそちらの世界に入り込んでいくようになった。稼ぎがないので、趣味の観劇も以前ほどは行かなくなっていたのだが、芝居をやっている友人に誘われて、小劇団の役者たちが集まる飲み会に出席したのがきっかけだった。私は新しい人たちとの出会いに興奮し、その付き合いにのめり込んだ。

もともと芝居が好きでよく観ていたこともあり、その裏側の世界の話を聞けることが楽しくて仕方なかった。反面、達彦が勤めていた会社の社長の死や、それに纏わる人間関係から逃げ出せる格好の場所でもあった。ひとつの劇団の役者と知り合ったのをきっかけに、そこにゲスト出演していた役者とも仲良くなり、今度はその役者の劇団の人たちとも親しくなる……ということを続けて、気が付くと、私はほとんどの時間を役者の人たちと過ごすようになった。

フリーになってからしばらくして、引き受けていた小冊子は、月刊から隔月、3か月に1回、4か月に1回と発行数が減っていき、新しい仕事も全くなかった私は、ほとんど貯金だけで生活を成り立たせていた。それでも私は、知り合いの役者が芝居をやると言えば受付を手伝い、パンフレットの制作を無料でやり、その打ち合わせと称しては朝まで皆で飲んだ。

貯金もそろそろ底を着くという頃、実家が引越すことになり、それと同時に私は一人暮らしを始めた。時々入るライターの仕事だけでスタートした一人暮らしは、半年もしないうちに破綻し、私は生活費のほとんどをデパート系クレジットカードからのキャッシングで賄うようになっていた。一人暮らしをする前は、家賃と食費の分さえ稼げば何とかなると高をくくっていたが、光熱費はもちろん、当たり前の話だがトイレットペーパーもシャンプーも石鹸も、全て自分で買わなければ生活していくことが出来ない。

今まで自宅にいて、そういったものを全て親が買う生活が普通だった私は、初めて本当の意味で「生活」することの大変さを知った。しばらく行っていなかったスナックのバイト以外、稼ぐ道がなく、私は再び夜の仕事を始めた。昔から知っているお客さんたちは、私が生活に困っていると知って食事をご馳走してくれたり、時にはスーパーで食料を買ってくれる人もいた。お客さんたちが助けてくれることは本当にありがたかったが、そうやって施しを受けることが情けなかった私は、お世話になった人には誕生日やクリスマスに、必ず何かプレゼントをした。もちろん、私の稼ぎではそんなことをする余裕はなく、結局デパート系のカードを使って買い物をしていた。

「本末転倒だ」
と、今の私には分かる。 私を助けてくれた人たちは、澤田さんをはじめ、どういうわけか私を評価してくれていた。
「いつか、はるかが書いたものを読みたいから、夢を途中で諦めるな」
皆、いつもそう言ってくれていた。そして私の生活が、一日も早くライターの仕事だけで成り立つようにと応援してくれていたのだ。その気持ちへの恩返しは、誕生日やクリスマスにプレゼントを渡すことではなく、一日も早く、彼らが言うように生活を安定させた私を見せることだったに違いない。カードを使い、更に借金を増やしてまで、私からプレゼントをもらっても、嬉しくもなんともなかっただろう。

「陳述書」にはもちろん、バイト先で知り合った人にプレゼントしたことや、芝居の仲間と飲みに行ったことなどは書かなかった。

「一人暮らしを始めたときには定期的に入る予定だった仕事が、だんだん減っていき、次第に生活が逼迫し、キャッシングを繰り返すようになりました」

数行で終わってしまった当時の生活状況の裏には、「現実の辛いこと」から逃げて、新しい友人たちとの関係に時間を費やし、多くの人たちに助けてもらいながらもその親切に甘えて過ごした、愚かな私の姿があった。