第2回
私が初めて借金をしたのは、もう10年以上前のことだ。正直に言えばあまり厳密には覚えていないが、いわゆるデパート系のキャッシングが最初で、やはり生活費のためだったように思う。

「デパートの丸井」のカードを作ったのは高校生の頃だった。当時付き合っていた恋人、達彦の誕生日プレゼントを買うために作ったのだが、学生の時に使ったのはその1回だけだったように記憶している。カードでの買い物は、昔風に言えば「月賦払い」だから、これも立派な借金で、そういう意味ではこれが私の借金歴の最初と言えるかもしれない。

高校を卒業して、雑誌などを作る編集プロダクションに勤めた私は、10万数千円の給料の中から、まず端数の数千円を給料日当日に、いつもご馳走してくれている達彦と、普段より少し高級なところへ行って使う。そして一緒に住んでいた母親に2万、もう2万円は定期預金、そして1万円を達彦と作った口座に貯金して、残りの5万円で生活していた。それでも自宅通勤だったので全てを差し引いて残った5万円は全部自分で使えたし、達彦と一緒の時はほとんど彼が出してくれていたので、就職してからお金に困ったことは全くなかった。
 
青山にある編集プロダクション「谷井企画」に就職が決まったのは、高校の卒業式も終わった春休みのことだった。特別にこれと言ってやりたいこともなく、かといって普通のOLではなく、何か一生できる仕事を見つけたいと思っていた私は、「目的もなく大学に行くのは意味がない」だの、「普通のOLにはなりたくない」だのと贅沢なことを言って、受験も就職活動もせずに高校生活を送った。

当時はバブルの真っ只中で、高卒の女子でも「売り手市場」だっただめ、しばらくバイトで繋いでも、その気になればいくらでも就職先はあると高をくくっていたのだ。しかし春休みにたまたまやったバイト先で、谷井企画の女性社長・谷井さんと知り合い、そのまま谷井さんの元で働くことが決まったのは、今から思えば運が良かったとしか言いようがない。

谷井企画は雑誌などの編集の他、広告宣伝、アパレルの商品企画・開発・プロデュースまで手がけており、その仕事内容は多岐にわたっていた。私以外は皆プロのライター、編集者、デザイナー、パタンナー、それに営業、経理の人で、私だけが電話番やコピーとりなどの雑用をする「何でもない人」だった。他の人は徹夜で仕事をすることも多く、私が出社するとやっと原稿を書き上げたライターが、「これから家に帰って寝る」と言って帰っていくこともしばしばあった。

そういう「プロの仕事」をしている人たちを見ていると、電話番以外何ひとつできず、やりたいことも特にない自分が情けなく思えた。「自分も何かやりたいこと、一生できる仕事を探さなくては」と、気持ちだけは焦っていくのだが、かといって「この仕事を覚えたい」という意欲もなかった私は、厳しい先輩に電話の受け答えが悪いとか、お茶の入れ方がまずいなどと怒鳴られては、「もう辞めようかな」などと考えて、相変わらずバイト気分のままだった。

仕事が終わると毎日会っていた達彦は、私のそんな話をいつも黙って聞いていた。高校を中退して、同級生でありながら私より早く社会に出ていた達彦は、それでも私に意見をしたり、説教じみたことを言うことはなかった。多分、そうやって黙って聞いてくれる人がいたからこそ、私は言うだけ言ってスッキリし、「でも頑張ろう」という気持になれたのだと思う。目的も、特別な夢もなかった私が、「もの書きになろう」と決心したことを、最初に打ち明けたのも達彦だった。

谷井企画の社長・谷井さんは、編集者でありクリエーターであり、もの書きでもある才能豊かな人で、その上「人を育てる」ということに熱意を注いでいる人だ。就職して最初のゴールデンウィークが明ける頃には、私と顔を合わせる度「はるかちゃん、あなたには才能があるから、物書きになりなさい」と、言うようになった。

今から思えば、勤めて1か月の私は何も「書いた」ことなどなく、何かの根拠があってそう言っていたというよりは、私を育てるためだったのではないかと思うのだが、才能豊かな人たちに囲まれて、自分も何かを探したいと思っていた私は、何度も繰り返し言われる「才能がある」という言葉をどこかで信じたかったのだと思う。

子供の頃から何かひとつやり遂げるということが苦手で、例えばクラブ活動ひとつとっても、「ずっとやっていました」と言えるものは何もなかった。けれど、小学校の高学年からは日記を、中学の頃からは詩を書き続けており、友人たちと遊びで作った同人誌、それに小説もどきなどが、自宅の押入れに山のように残っているのを見つけたとき、学生の頃、作文を書くのは大の苦手で、自分自身は「文章を書くのは嫌い」と思っていたのだが、もしかしたら自分が唯一続けていることは、「書く」ことだけかもしれないと思い至った。

人に気持ちを伝える手段が「話す」という方法しかなく、うまく伝えられずにいつもイライラして情緒不安定だった私だが、もしも「書く」という方法を身に付けることができれば、何かが変わるかもしれない…。

「書く」仕事と一口に言っても、取材して書く仕事もあれば、資料をまとめるもの、小説、エッセイ、脚本、作詞など、実に幅広い。自分が何を「書く」つもりなのか、その時の私には漠然としていて、具体性は何もなかった。それでも、私も谷井さんのように、他の先輩たちのように「ものを書く」ことを仕事にしよう。小説家にはなれなくても、一生ものを書く仕事をしていこう。

谷井さんと何回も話すうち、私はそう思った。

そして夏が終わる頃、私は谷井さんに改めて谷井企画で、一から仕事を教えて欲しいとお願いした。そして自分が書きたいものが見つかるまでは、さまざまな「書く」仕事の勉強をしておこうと思い、週に1回シナリオ教室に通うことにし、文章校正と作詞の通信教育にも申し込んだ。

谷井企画に就職してからも、何度かカードを使った。どんなものを買ったのかも覚えていないが、だいたい1〜2万円を2回払いにするくらいで、しかもそのローンが終わるまで次に使うこともなく、就職してから初めてのクリスマスに奮発して達彦にプレゼントを買ったのが、一番の大きな買い物だった。

今思い返せば、谷井企画に通っていた頃が、私にとって一番平和で、能天気な時代だった。もちろん当時は、それなりに悩みやイヤなこともあり、いつも愚痴をこぼしてはいたが、それを聞いてくれる恋人がいて、何の心配もなく生活ができ、愚痴ろうが手を抜こうがちゃんと毎日通えば決まった日にお給料がもらえる。その上将来の目的がみつかり、そのために手を差し伸べてくれる人がいて、勉強する機会まで与えてもらっていたという状態は、本当に恵まれていたのだ。社会に出たばかりの私は、そんなことにすら気が付いていなかった。

就職してから一年も経たない2月の頭。達彦が事故で亡くなった。ある日突然の出来事で、達彦の葬儀が終わり、すべてが片付いてからも、私は仕事をする気になれなかった。

谷井さんは、私の気持ちが落ち着くまでいつまでも休んでいていいと言ってくれたが、その時の私には先のことを考える余裕はなく、無期限でいつまでも休んでいるわけにはいかないと、結局2月一杯で谷井企画を辞めてしまった。

谷井さんに「私は将来、もの書きになります」と宣言してから半年も経っておらず、谷井企画に勤めていたのは、わずか10か月だけだった。谷井企画を辞めた私は、毎日ただ、泣いていた。通い始めたシナリオ教室も通信教育も、すべて卒業することなく終わってしまった。

19歳の冬。私は恋人と一緒に、仕事も夢も失い、残ったのは就職以来続けていた定期預金と、クリスマスに達彦に贈ったプレゼントのローンだけだった。